柳田国男も日記を書き間違う?―『炭焼日記』の謎と中野正剛の遺児
今日別の目的で『柳田国男全集 別巻1 年譜』を眺めていた際に、たまたま以下の興味深い記述を発見した。
1945年12月20日 中野正剛の遺児・中野泰彦が訪ねてくる (太字は筆者が追記)
この記述から私は、中野泰彦が柳田国男のもとを訪れた目的、中野正剛の遺児である中野泰彦とは何者かということの2点を疑問に思った。特に後者に関して気になった。中野正剛の子どもは4人いたが、戦後の時点で存命していたのは三男・達彦と四男・泰雄だけであったと理解していたからである。
「中野泰彦」は年譜の誤記であろうと思い、『定本 柳田国男集 別巻4』の『炭焼日記』を確認してみることにした。『炭焼日記』は1944, 1945年に書かれた柳田の日記である。『炭焼日記』の該当箇所を調べると、以下の記述を見つけた。
十二月二十日 木よう 晴
中野泰彦君来、正剛氏遺児、「我観」をつづけるからたのむという。(後略)
(筆者により一部現代語にあらため、太字にした)
何と驚くべきことに、年譜でなく柳田の書いた『炭焼日記』の記述自体にあやまりがある可能性が出てきたのだ!
念のため、『花田清輝全集』に付属している「月報1」の「『復興期の精神』刊行まで」中野達彦と「月報17」の「真善美社始末」中野泰雄の『我観』を復刊したときの回想が書かれている部分を確認してみたが、「中野泰彦」という人物は出てこなかった。
これは、「達彦」と「泰雄」を柳田が混同したか、もしくは正しく記憶していたが、日記に書き間違ったのであろう。あるいは、本にするときに間違えたのだろうか。他に出版された『炭焼日記』も調べてみたいところだ。また、私の手元にある資料からは、達彦と泰雄のどちらが柳田のもとを訪れたのが分からなかった。
引用した『炭焼日記』の記述から1つ目の疑問も解決した。達彦、もしくは泰雄は『我観』という雑誌の支援をお願いするために、柳田のもとを訪問したのだ。『柳田国男全集 別巻1 年譜』によると、中野の訪問の約2ヶ月前に、筑摩書房の唐木順三や臼井吉見も雑誌をつくるための相談を柳田に行っている。柳田は民俗学関連の雑誌を多く編集した経験があるので、アドヴァイスをもらいに訪問したのだろうか。
上記で触れた「真善美社始末」中野泰雄という文章によると、『我観』は大正12年10月に創刊された雑誌で、三宅雪嶺主宰の雑誌『日本及日本人』、中野正剛主宰の雑誌『東方時論』の合併問題の挫折から生まれたもので、両雑誌の流れを汲むものであった。雑誌名が変更される、戦時中一時期発行不能になる、復刊されるも再び発行不能となるなどの紆余曲折を経て、戦後に三宅雪嶺の希望もあって再び復刊されることが決まった。その発行の責任者が中野兄弟であった。なお、この雑誌には花田清輝が編集責任者という形で関わっている。花田は中野正剛の弟である中野秀人と親しかった。
(追記1)上記に引用した「真善美社始末」中野泰雄によると、泰雄は病気で11月下旬から12月下旬にかけて寝込んでいる。この状態で柳田を訪問できるかどうか疑問があるため、訪問したのは達彦なのではないかと推測される。この記事を投稿した際には、この情報を見落としていた。下記の記事に詳細を書いておいた。(2020/9/21)