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著述目録から考える澤田四郎作の東京時代

「澤田四郎作の日記を読む」というタイトルで翻刻された澤田の『日誌』を読んで気づいたことを下記のように投稿してきたが、今回は著述目録を読んで気づいたことを記事にしていきたい。繰り返しになるが、この著述目録はウェブで閲覧することができる。

この著述年譜によると、澤田は以下の雑誌に投稿している。

「ヨニーに歯のある話」『芳賀郡土俗研究会報一周年記念号』 1930年
「五倍子雑筆より(1)」『土の香』4巻22号 1931年
「五倍子雑筆より(1)」『土の香』4巻24号 1931年
「佐渡の感想」『佐渡郷土趣味研究』11輯 1931年
「はしご」『土の香』6巻5号 1932年

上記はいづれも地方で発行されていた雑誌だ。1冊ずつ取り上げてみよう。『芳賀郡土俗研究会報』は、栃木県逆川村(当時・現在の茂木町)の高橋勝利が中心となって運営されていた「芳賀郡土俗研究会」から発行されていた雑誌だ。以下の記事で私もこの雑誌に触れたことがあるが、地方の雑誌にも関わらず、柳田国男、中山太郎、南方熊楠など有名な民俗学の研究者も投稿していた。その雑誌に澤田が投稿していたことは興味深い。

 『土の香(かおり)』は、愛知県の加賀紫水の編集していた雑誌だ。以下のブログによると、この雑誌は柳田国男も注目していたらしい。

 『佐渡郷土趣味研究』は佐渡の民俗学研究者・青柳秀雄(秀夫)が編集していた雑誌だが、この雑誌にも澤田は投稿していたようだ。以下の記事の中でも紹介したように、昭和9年の澤田の『日誌』に青柳と大阪で会ったという記述がある。

 上記に紹介した澤田の雑誌の投稿先から分かるのは、地方の研究者と積極的に交流していたことだ。澤田の交流範囲が大阪にとどまらなかったことが伺える。澤田が大阪で病院を開院するのは1931年だが、上記に紹介した記事がこの時期の前後に投稿されていることから、地方の研究者との交流は大阪に住み始める前、東京に住んでいた時期にはじまったことが推測される。

 『柳田国男全集 別巻1 年譜』によると、1926年に澤田と柳田の間で書簡や澤田の発行していた雑誌(年譜には「雑誌」としか書かれていなかったが、『ファルス・クルツス』であろう)のやり取りがあったことが確認できるが、上記の雑誌を編集していた研究者との交流は、澤田が東京在住時に柳田を仲介してはじまった可能性がある。同年譜によると、高橋勝利は1929年に『栃木県芳賀郡土俗誌資料Ⅰ 猥談集』を柳田に送っていることから、高橋と柳田はこの前後には交流があったことが推測される。また、『増補改訂柳田文庫蔵書目録』によると、加賀紫水が編集していた『土の香』は、1928年発行の2巻1号から柳田文庫に所蔵されており、加賀と柳田もこの前後から交流があったと思われる。(注1)青柳秀雄に関しては、同目録から1930年発行の『佐渡郷土趣味研究』が同じく柳田文庫に所蔵されているが分かるため、この前後には交流があったと言えるだろう。澤田が各雑誌に投稿した時期以前に柳田は高橋、加賀、青柳と交流があったと推測されることから、澤田に両者を紹介することが可能であったと言そうだ。

 また、東京で形成された人脈が澤田の大阪での活動にも生かされていたと思われる。たとえば、佐渡の研究者である青柳との交流は、大阪に住み始めた後も継続している。そのため、大阪の民俗学研究者との交流の印象の強い澤田であるが、今後の研究次第では東京で形成された交流の影響が強かったという評価になるのではないだろうか。今後の研究の進展が楽しみだ。

(注1)所蔵されている雑誌がいつごろから所蔵されているかが分からないため、雑誌の発行日前後には交流があったとは断言できず、この方法は疑問が残ると考える。たとえば、古本で購入する、後でバックナンバーをまとめてもらう(購入する)、後で他の人からもらう、などという方法で発行日よりも後に入手することが可能であるからだ。本来だと、裏付けのために、柳田文庫に所蔵されている現物やその書き込みを確認する、雑誌を発行した側に送付先のリストや購読者名簿が残っていれば確認する、などをする必要があるだろう。『土の香』、『佐渡郷土趣味研究』とも限られた部数しか発行されておらず、限られた読者へしか流通しなかったであろう雑誌の性質を考慮して、ここでは雑誌の発行日前後には交流があったとして取り上げた。しかしながら、これでは後で発行人からまとめてもらった、他の人からもらったという可能性は排除できない。柳田と加賀、青柳の交流のはじまりに関しては、さらなる調査が必要である。


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