見出し画像

永井荷風の日記『断腸亭日乗』に登場する今村次七は何者か?

 永井荷風の日記である『断腸亭日乗』には今村次七という人物がしばしば登場する。いくつか該当箇所を『荷風全集第二十一巻』(岩波書店、1993年)収録の「断腸亭日乗一」(1917~1926年)から以下に引用してみたい。

(大正八年)五月十八日。旧友今村次七君金沢より上京。路地裏の寓居に来訪せらる。(後略)
(大正九年)九月三日。午後金沢の今村君来り訪はる。其の令嬢今年二十二歳となり洋行したしと言居らる由を語らる。余往年今村君と米国の各地を漫遊せし当時の事を思へば夢の如き心地す。(後略)
(大正十二年)五月十六日。午後金沢市今村次七君来り訪はる。米国遊学の旧事を語り合ひて日の暮るるを忘る。山形ホテル食堂にて晩餐を俱にす。(後略)
(大正十三年)七月三十日。午前金沢の今村君来訪。二十年前亜米利加遊学の時、ミネソタ州カアウツドといふ田舎にて撮影したる余の写真を見出したれば、引伸して複写したりとて示さる。

以下のレファレンス協同データベースの回答によると、今村は永井がアメリカへ留学した際に乗船した船で同じ船室にいたようであるので、古くから交流があったことが分かる。

この時代にアメリカへ留学するような人々は出自が豊かな人々が多いと考えて国会図書館デジコレで『人事興信録』を調べてみると、第五版(1918年)に今村が掲載されているのをみつけたので以下に引用してみたい。

今村次七 株式会社加州銀行取締役、金沢軌道株式会社監査役、金石電気鉄道株式会社支配人、石川県平民(中略)君は石川県平民今村勇次郎の長男にして明治八年八月一六日に以て生れ同三十五年十月家督を相続す。現時前記銀行会社の重役にして金石電気鉄道株式会社支配人を兼ね(後略)

今村が石川県の鉄道、金融分野で活躍していた実業家であったことが分かった。しかしながら、今村も最初から実業を志していたわけでなく永井と同じように文学や芸術に高い関心を持っていたようである。1971年5月30日『読売新聞』朝刊に「荷風若き日の素顔」という記事が掲載されており、今井が文学、芸術の道に進むか、実業に悩んでおり、永井がアドヴァイスを送っていることが紹介されている。なお、この記事によると、次七は「じしち」と読むという。

 最終的に今村は実業家の道へと進んでいるが、文化方面への関心を失うことはなかったようである。『昭和前期蒐書家リスト 趣味人・在野研究者・学者4500人』(トム・リバーフィールドさん編集, 2019年)によると、今村の名前が集古会会員名簿である『千里組織』(集古会、1935年)に載っており、蒐集分野は銭谷五兵衛事蹟であったようだ。上記に引用した『人事興信録』に記載されている住所と名簿上の住所は、ほぼ同じなので同一人物であると言って問題ないだろう。今村は実業家として活躍する一方で集古会に所属して蒐集、研究活動を行っており、完全に文化的な活動をやめたわけではなかった。今村は現在で言うところの「在野研究者」とも言えるかもしれない。


よろしければサポートをよろしくお願いいたします。サポートは、研究や調査を進める際に必要な資料、書籍、論文の購入費用にさせていただきます。