見出し画像

文芸誌『ホノホ』の主宰者・鷲見霞洲の正体が判明

 神保町のオタさんが以下の記事で明治時代に堺(大阪)で発行されていた鷲見霞洲が発行していた文芸誌『ホノホ』について言及されているのを読んだ。オタさんによれば、この雑誌は、明石利代『関西文壇の形成:明治・大正期の歌誌を中心に』(前田書店出版部、1975年)で詳しく紹介されているという。国会図書館でこの本を確認したところ、『ホノホ』は以下のように紹介されていた。

(前略)極めて未整理な資料から大体年代順に文芸雑誌刊行の状況を探ると、まず『ホノホ』というのがある。これは大阪市内からの刊行ではなく、堺市で刊行されたものである。最初にどれだけの文学基盤があったのかどうかは不明だが、『新声』などへの投書家に働きかける意図のもとで(明治)三十七年七月(筆者注:正しくは明治三十八年七月)に創刊されたらしい。地方刊行の雑誌にも働きかけ、丁度休刊する時期の『白虹』の主宰者入沢涼月の協力を得るようになり、ある程度『白虹』に替わる位置を持つようになったのである。(後略)

『新声』は明治29年7月に発刊された文芸誌(注1)、『白虹』は明治37年11月に岡山県で発刊された文芸誌(注2)である。『ホノホ』については、この本で詳しく紹介・検討されているが、その発行者である鷲見霞洲については、「『地方文芸史』(小木曾旭晃著、明治四三年一一月発行)」ではあまりよくは記されていない」と述べられており、ほとんど紹介されていない。小木曾旭晃『地方文芸史』(教育新聞発行所、明治43年)は国会図書館デジコレで閲覧できるので確認してみると、「地方文壇作家一覧表」の岐阜県の項目に鷲見について、以下のように記載されている。

鷲見霞洲 三十八年堺市に在りて『ホノホ』を発行し華美壮麗の体裁最も美術的に努め、地方雑誌の範をなす。現今泉州日々新聞記者。(読みやすくなるように必要に応じて句読点を追加した。)

確かにこの記述からは鷲見が新聞記者であったということ以外分からない。しかしながら、鷲見霞洲という人物、実は拙noteでも度々紹介したことのある人物である。その人物とは、戦前に大物趣味人として知られていた鷲見東一(桃逸)である。以下の鷲見の小伝でも引用したが、愛知県の山下俊男が発行していた雑誌『郷土趣味』第1輯の編集後記で鷲見は以下のように紹介されている。この紹介を再掲しておきたい。

鷲見東一氏 岐阜市の産、明治十六年一月生れ未年の五十四才、過去三十年間新聞記者として活躍せられ現在では著述と趣味の研究に精進せらる。
 詩歌集「ほのほ」演芸評論「艶麓」、趣味方面では「大阪の玩具」方面をかへて財界の人物旦「財界に躍る人々」等の著述あり。
 現在、堺市向陽町に住居せらる。(一部を筆者により現代仮名遣いにあらため、読みやすくなるように必要に応じて句読点などを追加した。)

上記から、鷲見東一はかつて「ほのほ」と呼ばれる本もしくは雑誌を発行していたことがわかる。『地方文芸史』では、鷲見霞洲は岐阜県の出身であると述べられており、鷲見はいくつかの新聞で記者をしていたので、鷲見東一=鷲見霞洲と同定して問題ないであろう。鷲見は趣味の世界だけでなく、地域の文芸活動にも関わっていたというのは初めて知ることができた。その活動の詳細が気になるところだ。

 『ホノホ』は貴重な雑誌であるようで、少し調べてみたが、日本近代文学館、東京大学の明治新聞雑誌文庫にしか所蔵がなかった。どちらも揃いでなく一部が残されているのみである。これらから鷲見の活動を追うことができるだろうか。『関西文壇の形成』によると、日本近代文学館には鷲見の書簡も所蔵されているようだ。

 最後に余談になってしまうが、『地方文芸史』の著者である小木曾の名前はどこかで読んだような記憶があったが、この記事を書いている際に土俗趣味誌『土の香』加賀紫水が編集した『百人一趣』(土俗趣味社、昭和21年)に投稿していた人物であることを思い出した。小木曾は上巻に「青嵐(俳句)」、「老いの自慢話」を投稿している。『百人一趣』は、先日完売した私が発行した調査趣味誌『深夜の調べ』第1号に総目次を収録していたためスムーズに調べることができた。この本の執筆者はオタさんの以下の記事からも確認できるが、上巻の執筆者に小木曾の名前がある。

(注1)日本近代文学館編『日本近代文学大事典』第5巻(講談社、1977年)
(注2)明石利代『関西文壇の形成:明治・大正期の歌誌を中心に』(前田書店出版部、1975年)

よろしければサポートをよろしくお願いいたします。サポートは、研究や調査を進める際に必要な資料、書籍、論文の購入費用にさせていただきます。