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立教学院校友会の役員だった謎の男・平澤哲雄の父・平澤三郎

 拙noteで度々取り上げている平澤哲雄の父が埼玉県の多額納税者であった平澤三郎であるということは以下の記事で紹介した。

この平澤三郎の経歴を『人事興信録』第8版(昭和3年)(人事興信所, 1928年)を参考にして以下に抜粋という形であらためて引用してみたい。なお、元の文章からそのまま引用するのでなく、必要な部分を分かりやすくして引用している。

平澤三郎 正七位勲七等。埼玉県多額納税者。武州鉄道(株)取締役、埼玉県郵便局長会副会長、菖蒲郵便局長、農業、埼玉県在籍
1872年に埼玉県熊谷町斎藤太郎兵衛の次男として誕生。後に先代倉吉の養子となり1904年に家督を相続する。1886年立教大学に入学、在学5年の後に1891年東京専門学校英語専修科を卒業。現在、武州鉄道会社取締役、多くの地方名誉職を兼任して農業を営む。埼玉県多額納税者でもある。(現住所:埼玉、南埼玉、菖蒲町電七)

上記の経歴から三郎が1886年に立教大学に入学したことが分かる。このことは『立教大学同窓会会員名簿:創立80周年記念』 (立教大学同窓会, 1955年)からも確認できる。三郎は単に立教大学を卒業しただけでなく、『立教学院八五年史』(立教学院事務局, 1960年)によると、三郎は卒業後も立教大学に関わり続けたようだ。たとえば、1908年時点で立教学院校友会内の団体のひとつであるガーデナー会(旧立教大学生徒会)の会計を務めている。また、1935年時点で同校友会の顧問の一人に三郎の名前が確認できる。『立教大学同窓会会員名簿:創立80周年記念』で「平沢三郎」という名前は一人だけであること、ガーデナー会の「平沢三郎」の現住所が「埼玉県菖蒲町」と書かれており『人事興信録』第8版の現住所と一致することからこの校友会に関係のあった「平沢三郎」は哲雄の父である三郎であろう。三郎は立教学院の校友会の中で重役を務めており、母校愛の強い人物であったと考えられる。

 なぜこのようなことを調べていたかというと、哲雄の出身中学校の解明につながるからかもしれないからである。彼の『直現芸術論』(下出書店, 1922年)によると、彼は「築地の中学校」の出身であるようだ。上記で取り上げたように、彼の父は立教大学の出身であり、その校友会の内部で重要な役職についていた。また、別の機会に取り上げるようと考えているが、哲雄の追悼会の発起人の中に何名か立教学院の関係者がいる。(追悼会の発起人に関しては、以下の記事を参照して欲しい。)以上の2点の理由から明確な根拠はないが、立教中学校の出身ではないかと推測している。



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