関西民俗学研究者の人脈形成例―宮武省三、出口米吉、澤田四郎作
前回更新した記事で大阪で活動していた民俗学研究者・出口米吉に関して紹介した。この記事では触れられなかったが、出口は、澤田四郎作と交流があった(注1)が、両者の交流のきっかけをつくったのは染色研究家・後藤捷一である。このことは『近畿民俗』第29号(近畿民俗学会)の「編者のことば」後藤捷一で語られている。
この関係性は次の交流を生むことになった。『近畿民俗』第36号に掲載されている「出口米吉翁と私」宮武省三には以下のような記述がある。宮武省三は南方熊楠と交流があった民俗学研究者として知られている。
(前略)十一月四日付で 二、三日前参上申候はがき御落手下され候事と奉在候、本日沢田博士より八日午後二時頃御来遊され貴台に御面会楽しみにして居られる旨御通知に相成候につき何卒同日に御足労御枉駕(ごおうが)の程切に待上申候態々御越し被下候やう御願申上候ても何等御構も出来不申候へ共久方ぶりにて趣味の御話承り度切望致候右一寸御通知かたかた如斯草々不一 と出口さんから達筆のペン字書で、御案内があったので、早速おうけして十一月八日午後一時過ぎ出口さんを訪れて久潤を飾し、先づ拙註補足の台本をお渡しして遅延のお詫びをしているうち沢田博士も見えられたれば、話はこれから大に弾んだが、なんでもこの時博士はまだ三十二才のお若さであると承わり老措大の私は今更ながら日暮路遠き身を自ら憐れんだ次第(後略)(筆者が重要であると考える部分を太字にした。)
上記の文中に引用されている書簡は1931年に出口から宮武に出されたものである。ウェブ上で閲覧できる澤田四郎作の年譜によると、この年の6月に澤田は大阪に引っ越してきている。この直後に、出口の紹介で宮武と澤田が面会した。上記の文章から考えると、宮武はこの時に澤田と知り合ったのではないだろうか。ここから考えると、澤田の関係性は、後藤→出口→宮武と形成されたことになる。徐々に人脈が形成されていくのが感じられておもしろい。
(注1)前回の記事では後藤の紹介で澤田が出口と知り合った時期がよく分からないと述べたが、以下のようにご教示いただいた。
上記の記事で興味深いのは澤田の関西における人脈の形成が東京在住時に進んでいたことである。
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