加藤周一『雑種文化』についてのメモー両極を乗り越えるという課題
最近、加藤周一『雑種文化 日本の小さな希望』(講談社文庫、1974年)(以下『雑種文化』と記載)を読み進めている。この本は以前から知っていたが、あらためて関心を持った理由は、昨年精読した丸山眞男『日本の思想』(岩波新書、1961年)に登場したからである。丸山眞男は、日本の文化の特徴は加藤周一が指摘した「雑種文化」であるが、文化相互の交流がないためどちらかというと「雑居文化」ではないかと『日本の思想』の中で述べている。『雑種文化』を読み進めていて考えたのは、『日本の思想』とほぼ同時代に執筆されたという同時代性であるが、一例を以下に引用してみたい。
加藤は、近代日本の課題として西洋の文化の受容もしくはそれに反発する日本文化の再評価の両者とも極端な方向に向かってしまう危険性があるを指摘して、まずは現状の「雑種性」を認めることからはじめるべきだと述べている。この両極端という課題については、丸山が『日本の思想』で指摘した「理論信仰」(西洋理論をそのまま適応しようとすること)と「実感信仰」(理論否定による日本文化への回帰)として取り上げたものと重なる。あらためて考えてみると、ほぼ同時代の仕事である鶴見俊輔を中心とした『思想の科学』の共同研究「転向」も転向の問題において、左派(特に日本共産党支持)→右派(国家主義)、西洋思想→日本の伝統思想という面以外のかたちを様々な人物の思想遍歴の伝記的な個別研究で検討しようとするものであり、加藤や丸山が指摘していた問題を避けようとする取り組みであった。この両極端という課題は1950年代において思想家の共通課題であったように思われる。
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