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11-3.動画でものごとの実体を発見する
『動画で考える』11.動画で考える
動画の撮影を通して物事の実体を発見しよう。
あなたは毎日、学校や会社に通うために電車に乗って移動しているだろうか。あなたにとっては、行き先に到着することが目的であり、移動手段の一つとして電車の機能を利用しているに過ぎない。代わりの方法はいくらでもあるし、置き換えも可能だ。移動さえ出来れば、その間は音楽を聴いていても良いし、本も読める。ずっと眠っていたって良い。距離や時間を気にしなくても、目が覚めたらそこは目的地だ。勉強も仕事も自宅で済めば、その移動は省略可能でさえある。
それでは、移動の間ずっと動画を撮影することを課せられたとしよう。移動に一時間かかるのなら、一時間撮影を続けなければならない。ビデオカメラを何に向けたら良いのか、とりあえずは窓の外の景色を撮影してみよう。移動にあわせて景色が流れていく様子は、ぼんやり眺めているだけでも退屈しないし、時間つぶしになる。しばらく撮影を続けているうちに、郊外から市街地へ、地上から地下へと路線の景観はダイナミックに変化するだろう。
もう少し注意深く観察すれば、駅から駅へと移動する繰り返しにもパターンが見えてくるだろうし、線路沿いの植栽や電柱と電線の配置は、動画の画面上に一定のリズムを刻んでいるように思えてくる。電車の走行音も画面の変化と同調しているように聞こえてくる。さらにビデオカメラをズームアップして、画面上の変化が際立つような撮り方をしてみると、そこには抽象的な動く図形のパターンが現れる。あなたは確かに電車に乗って移動しているのだが、別の観点から見ると、抽象的な図形と音響を発生させる装置の中で、アニメーションのようなものを鑑賞している、と言えないこともない。
日常生活に最初から与えられている目的と機能を書き換えよう。
動画は、一定時間目の前にあるものごとの実体を記録するための手段だ。その実体は置き換え不可能なものであり、また特定の目的や機能に限定されないものだ。目的と機能を重視するなら不要とされる場合もあるその実体は、動画の撮影を通して再確認することで、本来の姿を現し、目的と機能を書き換えることで、それまでとはまったく違うものとして有用化することが出来る。
学校や会社に通うための移動手段という目的と機能に囚われているあいだは、電車の実体は見えてこない。動画の撮影という手段を通して、それをニュートラルな状態で再確認して、抽象的な図形と音響を発生させる装置、として書き換えることも出来る。あるいは、さまざまな経緯で集まった人びとが一定時間一緒に過ごす密室空間、と書き換えることも可能だろう。
「洗濯機」を動画で撮影する場合そこに記録されるのは、ある機械的な構造が駆動する装置という実体であり、衣類をきれいにするという目的と機能が分かちがたく一体となっている状態ではない。例えばそこに映っているものを、一定時間振動しながら音を発し続ける楽器である、ということも出来るし、自然界の水の循環の過程にあって水流をコントロールする装置である、ということも出来る。
「壁紙」を部屋のインテリアの一要素と捉えることも出来るし、動画の撮影を通して観察することで、空気中の水分を吸収してカビを繁殖させる培養器だ、ということも出来る。そのように目的と機能を書き換えれば、あなたが生活する部屋は、人と微生物が共生する空間、と捉えることも出来るかもしれない。
ものごとの実体を言葉に還元せずに観察し続け、その可能性のバリエーションを記録しよう。
あなたは日常を、あらかじめ決められた目的と機能に従って生活している。あなたが意識しているのはただその事だけで、目の前の実体を何も見てはいない。喉が渇いたらペットボトルの水を飲む、お腹がすいたら料理をして食事をする。パンを食べる。サラダを食べる。カレーを食べる。しかしパンやサラダやカレーの実体を見ているわけではない。あなたが食事の様子を動画で撮影しそれを再生・視聴したときに、あなたは初めてそこに物事の実体を発見する。
あなたはその動画を再生して、そこに映し出されたさまざまな実体を視聴し確認する。その時にそこに映し出されたものを、パンである、サラダである、カレーである、と理解しようとせずに、とにかく見えるもの・聞こえることだけを観察しよう。目の前にあるものを理解してしまいたいという誘惑は次々に襲いかかってくる。おいしそうだな、とか、新鮮だな、とか、ライスの量が多いな、とか。そんな言葉が思い浮かんでも、できる限り言葉で解ろうとすることを遠ざけて、視聴を続けよう。
そうしているうちに、目の前にある物事の別の目的と機能が見えてくる。確信はないが手掛かりがつかめそうな気がしてくる。それを確認するために、さらに動画を撮影して日常生活のさまざまな局面を観察してみよう。そしてすべての物事の目的と機能を、あなたが発見した手掛かりを頼りに書き換えてみよう。その時にあなたの日常生活が、これまでとはまったく違う見え方でそこにあることに気が付くだろう。それは最初からそこにあって、あなたが見ようとしなかった見え方のバリエーションのほんの一つに過ぎない。
動画の撮影を通して物事の実体を発見し、それを言葉に還元することを回避しながら観察し続けること、そしてそこにある無数の可能性のバリエーションを記録すること、その過程こそが「動画で考える」ということだ。
(イラスト/鶴崎いづみ)