見出し画像

幸せとの付き合い方

今日もご覧いただきありがとうございます。

前回の投稿ではヒトは大きく「セロトニン」、「オキシトシン」、「ドーパミン」の3つの神経伝達物質によって幸せが作り出される、そのためこの物質への理解は、同時に幸せとは何なのかという疑問への理解の一助となる趣旨の話をした。

今回も脳科学的側面から追っていきたい。

脳にとっては幸せは副次的

脳科学的にヒトの進化を見た時に、脳の最優先事項はとにかく、「生き延びる」ことだという。

脳が入っている器であるカラダをとにかくやる気を奮い起こして、活発に動かせて必要な栄養を摂取したり、異性とコンタクトをとって、子孫を残す。
そのために自然や危険な動物から脳を守るためにカラダのパフォーマンスを最大限に引き上げて生き延びる。
これに集約される。

これは何十万年から変わっていないという。
進化には途方もない時間がかかるため、基本的な構造は、わたしたち現代人と狩猟採集民では対して変わらない。
突き詰めると、数万年前の狩猟採集民が現代風のユニクロやZARA、H&Mなどのファストファッション、もしくはハイブランドの服やトヨタやホンダの車、テスラの車を颯爽と乗り回し、iPhoneやMacbookを使いこなしていても対して違和感はないのである。

そもそも、わたしたちは、いつから幸せを追い求めるようになったのであろうか?
皆んながこぞって、幸せは追い求めないといけないのであろうか?

小さな頃からの刷り込みによるものだろうが、幸せであること、幸せを手に入れることがヒトにとって、目指すべきゴールというか、モチベーションの源泉のようになっている。
幸せについて真剣に研究する分野もあるくらいで、Googleで検索してみると、約9億200万件がヒットするという。

書籍『ストレス脳』(アンデシュ・ハンセン/新潮社)によると、

〝「幸せな気分でいること」は人生で最も大切なことの上位に必ず入ってくる。しかし幸福感というのは、進化の工具箱の中にある工具の1本にすぎない。しかも消えないと使い物にならない工具だ。つまり常に幸せな気分でいることは、調理台のバナナがあなたを一生満腹にしてくれるくらいに非現実的なのだ。私たちはそもそもそんなふうにはできていないのだから。〟

とあるように、脳はカラダを奮い起こすために幸福感が出ては消えるようにしむけている訳である。
したがって、幸せとは手に入れたと思いきや、指の間から無常にもさらさらと落ちていってしまうようなもの。
決して、その場には長くは留まらない。
モノのように手に入れたらずっと一緒にそばに寄り添ってくれる、そのような存在ではないのである。
そう考えると、幸せとは終着点ではないし、そこを目指してがむしゃらになるのも何か的外れなのかもしれない。
もっと大事な何かがありそうである。

何かのインタビュー記事かなんかで昔に読んだことを思い出したのであるが、プロのトップアスリートが他のことを犠牲にして、厳しい練習を頑張って頑張って、ついに念願の優勝のトロフィーを手に入れた時に、幸せに満たされることを実感したそうであるが、それもつかの間のことであったという。
今後はそれを防衛したり、もっと上を目指すことにフォーカスが当たると、幸せはあっという間に目の前から消えていってしまったというのである。
あまりにも無常ではないかと…、その時は絶望感にも似た感情が湧き起こったものである。

しかし、救いはある。

心が楽になる幸せの定義


わたしが好きな幸せの定義がある。

これはわたしが今まで出会った中で、一番すとんと腹落ちして、納得のいくものなのである。

まずは、逆説的ではあるが、幸せを感じたいならば、幸せを「無視する」ことだという。

脳はカラダの内外の情報に基づいて、「生き延びる」というミッションのために、常にわたしたちの感情の状態をコロコロと変えていく。
だからこそ、幸せの感情は現れたかと思いきや、すぐにまた消えていく。
よって、幸せを追い求めるのはやめたほうがいいということになる。

書籍『ストレス脳』からの引用であるが、

〝私が聞いたことのある中で最も建設的な幸せの定義は、「ポジティブな体験」と「自分自身に対する深い洞察」の組み合わせだ。〟

〝つまり幸せとは独立したゴールではなく、あくまで状況の一部なのだ。幸せが生まれるのは人生で何が重要なのかを理解し、それに沿って行動した時だ。自分や他人のために意義を感じられるものの一部になった時に。〟

とある。

わたしにとって、この表現がとてもしっくりときて、心が楽になるのである。

自分は何が得意で、それをどのように自分そして他人のために使えるのかを理解する。
そして、それによって、自分の外側に広がっているものと一部になっているという実感が得られること。
このプロセスにおいて、幸せはついでに、おまけみたいなものとして生まれるというわけである。

幸せなんてものは、無視する。
追い求めることもしない。
幸せとは幸せについて考えることをやめ、「意義」を感じられることに没頭した時に生まれる副産物でしかないのである。

これに気づいた時に、すっと肩の力が抜けたのである。
目の前の展望もパッと開けたような感覚も得られた。

最後に、哲学者のニーチェの箴言を引用したい。

生きる意義を1つでももつ者は、いかに生きるかという問いのほとんどに耐えられる

大事なのは、人生から問われる「why?(なぜ)」に対して責任を持って答えていく姿勢であると思う。
自分のアイデンティティに沿った生き方をしていれば、幸せなんてものはどうでもいいのである。

おまけにもらえたら、儲けもの。
この程度の認識でいたら、たまに見る日本の幸福度ランキングなんて、低かろうが、ランキングがちょっと上がろうが、歯牙にもかけないのである。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?