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現代のSNSを連想させるオペラ

オペラの題材には現代の私たちにもリアルに感じる設定が多く見られます。
それはまるで私たちをはるか昔から見透かしていたかのようでもあり、人間の本質は昔から変わらないのだなぁと思えることも多々あります。

今回はそうしたオペラから、現代人の多くが無縁ではいられない『SNS』に関する問題を扱っているような場面を4つご紹介しましょう。

※添付している動画は今まで同様、紹介したい場面から始まるように設定しています。すべて全曲盤の動画ですので止め時がわからない方もおられるかもしれませんが、お時間の許す限りご覧いただくか、適当なタイミングで止めてください。(無責任ですみません!)


モーツァルト『魔笛』

モーツァルト晩年の傑作『魔笛』は彼が庶民階級の観客のために書いたオペラです。
その設定は勧善懲悪、ファンタジー、主人公の冒険と成長が描かれた、わかりやすいものとなっています。

架空の世界が舞台。旅をする王子タミーノは大蛇に襲われますが、夜の女王配下の女戦士たちに救われます。
そして夜の女王に見込まれたタミーノは彼女の頼みで、その地の支配を夜の女王から奪った“指導者”ザラストロに囚われた姫パミーナを救出しに行きます。
相棒のパパゲーノ、謎の“案内役”三人の童子たちに伴われて、タミーノはザラストロとその仲間たちが住むという神殿に到着します。

紹介するのはその後の場面です。
神殿の門をくぐろうとするタミーノに一人の僧が声をかけます。この二人のやり取りは歌ではなく、音程が付けられた語り「レチタティーヴォ」によってなされます。
彼によればザラストロは高潔な人であり、タミーノは夜の女王に騙されたのだとのこと。
ですが夜の女王の言葉を鵜吞みにしてしまっているタミーノは僧の言葉を信じません。

タミーノの単純な思い込みやザラストロに対する決めつけには、現代の私たちと同じ「最初に見聞きした情報に流されやすい」という人間の性(さが)が見て取れます。
こうした傾向が現代ではSNSでの誹謗中傷やフェイクニュースの横行に繋がっているのでしょう。

その後ザラストロと対面したタミーノは一転ザラストロに従順なキャラクターに変貌します。
物語のご都合主義という気もしないではないですが、ザラストロの気高さに一瞬で気が付くタミーノの理性的なところを私たちも見習うべきなのでしょうね。

ロッシーニ『セヴィリアの理髪師』

現代でも大人気のオペラ『セヴィリアの理髪師』は個性たっぷりの登場人物たちがお互いに相手をだまそうとしていろんな策略を繰り広げる喜劇です。

舞台はスペインの街セヴィリア。タイトルの「理髪師」とは自称“街の何でも屋”で理髪店を営む、知恵者のフィガロです。
彼は以前からの知り合いの若い貴族アルマヴィーヴァ伯爵と街で再会し、伯爵が恋焦がれている娘ロジーナとの仲立ちをすることになります。

このロジーナ、財産を相続したのに身寄りが無く、後見人の老医師バルトロに半ば監禁されている状態。当然バルトロはロジーナが恋愛することなど許しません。
また彼にはロジーナの音楽教師という立場ながら、金と噂話の方で忙しいバジーリオというインチキ臭い男がすり寄っています。

伯爵とフィガロ、バルトロとバジーリオたちがロジーナを巡ってドタバタ喜劇を演じますが、最後はもちろん伯爵とロジーナが結ばれるというお話です。

ご紹介する場面は、伯爵の存在を知ったバルトロに敵を追い払う秘策を授けるバジーリオの歌。その名も「陰口はそよ風のように」です。
その心は、伯爵の根も葉もない悪い噂をばらまけば、それは勝手に人の口から口へ広がり、伯爵は必ずや退散することになるだろうというもの。

「なんと気の長い戦略だ」と皆さんは思いますよね?実はバルトロもそう感じて、この計画を一蹴します。
ですが実際はどうでしょうか?私たちはSNSで暴れまわる誹謗中傷によって有名人や政治家がボロボロにされる場面を頻繁に目にしています。
それは事実である場合もありますが、そうでない場合もあるでしょう。
だって私たちはその事の真偽を確認する前に当事者を排除してしまっているのですから。

そんな“陰口”の圧倒的なパワーをロッシーニは絶妙の音楽で表現しました。ほんの些細な影口が最後は大砲のような威力を持つまでのプロセスをお聞きください。

リヒャルト・シュトラウス『サロメ』

リヒャルト・シュトラウスのオペラで最初に当たった作品が『サロメ』です。
イギリスの作家オスカー・ワイルドの戯曲を原作として、聖書に出てくる妖女サロメを描いた19世紀末のデカダンス感たっぷりの官能的なオペラです。

イエス・キリストに洗礼を与えた聖者ヨカナーン(洗礼者ヨハネ)はユダヤ王ヘロデへの不敬の罪で捕らえられていましたが、臆病なヘロデはヨカナーンに罰を与えることを躊躇していました。

ヘロデの妻には怪しい魅力のある娘サロメという連れ子がいました。
牢の中からでも激しくヘロデをなじるヨカナーンにサロメは情欲を催して言い寄るのですが、ヨカナーンはサロメをも穢れた存在としてはねつけます。

折しも宴会中で興が乗ったヘロデはサロメに舞を命じます。舞った後は何でも褒美として与える約束をして。
素晴らしい舞のあと「褒美はなんじゃ?」と聞くヘロデ。
勿体ぶったサロメは最後にこう答えるのでした。
「ヨカナーンの首を!」と。

ここで紹介するのは宴会に招かれたユダヤ教の学者たちが言い争いをする場面です。
ヨカナーンが真の預言者かどうかの話から脱線して大昔の預言者エリアスの話をし始め、「神はお隠れだ」だの「神はどこにでもいる」だの「神のことはわかりえない」だの、果ては「神の道は暗い」だのと意味の無い主張を延々とぶち上げます。

現代のSNSでセンシティブな議論が繰り広げられるとき、私はこの場面を思い浮かべます。
議論の本題からずれた、意味も答えも無い議論の応酬。それを議論したら何のメリットに到達するのか、議論している当人たちにもわかっていません。

延々と続く結論の無い議論。議論することに意味があるとして浪費される時間と、再生産される対立…
ユダヤ人たちの議論を恐らく神はお喜びにならないように、SNSでの議論を私たちの多くは歓迎していません。
不毛な議論ばかりしている人たちもそのことに気付くべきだと思います。

ワーグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー』

悲劇のイメージが強いワーグナーですが、なんと休憩まで含めると上演に6時間以上かかる大作の喜劇も作曲しています。それが『ニュルンベルクのマイスタージンガー』。
ですが内容をよく見るとなかなかシリアスなテーマを含んでいて、いろいろな解釈の演出を試みられることが多いオペラです。

舞台は中世ドイツの都市ニュルンベルク。
この地では職人たちは即興で歌を作れることも技能として求められるという伝統がありました。
その中でも高い技能を持ち、歌の試験にも合格して組合に参加を許された人は「マイスタージンガー」と呼ばれて尊敬されていました。

ある時、没落した騎士ヴァルターは市民として生きるためにこの地の裕福な金細工師ポーグナーの家に逗留していたのですが、そこでポーグナーの美しい娘エーファに出会い、二人は恋に落ちます。

しかしポーグナーは娘を、街の祭りで催される歌合戦で優勝したマイスタージンガーのみにしか与えないと宣言します。
そこで歌に覚えのあるヴァルターはまずマイスタージンガーの資格を得ようと組合集会に乗り込みます。
審査員を務めるのは、歌合戦で優勝してエーファとの結婚をもくろむ男ベックメッサー。ヴァルターの歌に散々な点数を付け、歌の途中で打ち切り宣言をします。

実はマイスタージンガーになるための歌の様式にはとても細かい決め事があり、それを覚えるだけでも一苦労。見習いたちはそれを習得するだけで何年もかかるという代物でした。
ベックメッサーの厳しい講評に他のマイスタージンガーたちも賛同します。

ただ一人それに異を唱えたのは、わかりやすい歌で市民に大人気の靴屋ザックスでした。
彼はヴァルターの歌に才能を感じ、頭の固いマイスタージンガーたちに「新しい様式も受け入れるべきだ」と主張します。
猛然と反発するベックメッサーに、ザックスも「あなたはライバルを蹴落としたいのだろう」と負けていません。

ここで紹介するのは第一幕のフィナーレです。
「構わず続きを歌え!」と促すザックスに応えて、ヴァルターは取り憑かれたように歌を続けます。

ベックメッサーを茂みから飛び出したフクロウに、マイスタージンガーたちをフクロウにつられて騒ぎ出すカラスたちに例えて歌うヴァルター。
その後ろではベックメッサーの煽りに乗せられて「あれはダメだ」と騒ぎ始めるマイスタージンガーたちの声。
その場面を面白がって、はやし立てる見習い小僧たちの合唱。

まさにSNSの「炎上」です。
それは一人の人間の個人的な悪意から始まります。
そしていろんな利害や信条からそれに賛同する人が現れ、それを面白がる無責任な人たちが周りを囲みます。
そして正しい人の声はかき消されてしまうのでしょうか?

大騒ぎのさなかにヴァルターの歌は突然趣きを変えます。
「その時、黄金色の翼を持った美しい鳥が羽ばたいた。」
「その鳥は私に言う。ここを飛び立てと…」
全幕を通じて最も美しい瞬間です。

SNSにおいても正しい意見は大抵うるさいノイズにかき消されてしまいます。いつも正しい人が踏みにじられ、嘲笑されて悔しい思いをします。
でも忘れないようにしましょう。
正しければ認めてくれる人がいます。その人はきっと“美しい翼”を持っているように見えます。決して汚い言葉を吐いたり徒党を組んで人を攻撃したりはしないはずです。
それをわかっているだけでも避けるべき意見の選別はできるのではないでしょうか?
それが現代のネット社会を生きる私たちが知っておくべき知恵なのです。

このライブ映像もそうなのですが、この場面はただの大騒ぎになりがちです。
ですが大指揮者カラヤンは全曲盤の録音の時、この場面でマイスタージンガー役たちに声を張らないように指示しました。こうすることによってヴァルターの声を際立たせ、彼の歌が真に美しいことと同時に、誰にも理解されないという孤独さを表現したのです。
孤独な主張者の報われない思いと、それを認めてくれるメンターとの幸せな出会いを皆さんにも感じていただきたいと思い、カラヤン盤の方もご紹介させていただきます。

オペラは現代とリンクする

今回はSNSをテーマに、それとリンクしているような内容の作品を取り上げました。
このようにオペラは私たち現代人にとっても同じ悩みを持つ者として共感できる内容を含んでいます。例えば恋愛、失恋、嫉妬心や復讐心などです。
オペラは遠い過去の世界を描いたものというだけでなく、まさに現代の私たちを描いてくれているものだとも言えます。
そういう見方をしてみるとオペラがもっと身近に思えるかもしれませんね。

今回のテーマに近い題材の記事として『抑圧への抵抗がテーマのオペラ』というシリーズも書いています。
抑圧や圧制に抵抗する人たちを取り上げた内容です。
あと、特殊詐欺の連続みたいなオペラも紹介しています。
時代の『今』にとてもマッチした内容ですので、ぜひこちらも読んでみてください。

それではまた!

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