「時間」というロウソクに「命」という火をともす
本を読む。これほど投資効率のいい手段はないと思ってます。投資といえば、土地や株なんかもそうですが、けっこうなリスクが想定されなくもありません。一方、読書にかかるコストは一冊1500円~高くても3000円くらいでしょうか?良し悪しはありますが、質の高い内容に限っていえば、得られる成果はコストの何倍どころではない気がします。コスト面でのリスクは極小です。
書籍の本質をひもといみると、シンプルにそれは「情報の集積」 しかもその情報には、筆者が膨大な時間とお金が費やされて、取捨選択して得られた希少性があります。たとえば近年では「8時間睡眠のウソ」が叫ばれて久しい。人の睡眠時間は千差万別で、高齢者は6時間くらいで十分、逆に子供は9時間くらいでちょうどいい、というものです。
私個人でいうと、8時間は常識中の常識。疑う余地はありませんでしたが、「それは間違っている」という事実を突き止めようとおもえば、どれくらいの時間と費用がかかるか想像できません。たくさんの時間とお金を使ってもひょっとしたら見つけられないかも。
極端な話、地動説や万有引力をゼロから証明しろと言われて、まじめに取り組む人がいないのと同じように、世にあるさまざまな情報は、自分で見つけ出すより、誰かに教わった方が圧倒的に速いことは誰もが理解できると思います。教わるとは、人に会いにいくまでもなく、書籍を通して学ぶこと。たった1500円で、大幅にショートカットできるシロモノです。
時間は有限であり、失うと決して取り返すことができないという意味で、もっとも希少な資源のひとつだと私は考えています。たとえば「移動」 私も含めて一般的には、電車やバスを使うほうが、密や騒音をがまんすれば安くて便利です。一方、タクシーは静かでストレスフリーですが、なかなか乗ろうとは思えないほど高額な料金を請求されることがあります。
ですが仮に移動時間が30分で、30分あれば有料のnoteを一話つくれるとしたらどうでしょう?1000円×10人で10000円の売り上げがたつとすればどうでしょうか?5000円の原価(タクシー代)を払っても5000円の利益が残ります。電車で、乗り換えや階段、改札うんぬんという障害があるなかでnoteが書ければ話は別ですが。
「時間をお金で買う」発想は、意外と見過ごされていますが、こうやって考えると合理的。本も同じ理屈です。営業成績をあげたい、テストの成績でいい点をとりたい。そう思うなら自力、我流でなんとかするより、適切な本を買って短時間で知識を習得した方が単位時間当たりの利益率は大幅に改善されるはずです。
目の前の小金が惜しいがために無駄な時間を費やすことは、あまり疑問視されていないような気がしています。先日、わりと大きめのサッカークラブが、ウェブサイトの画像デザインを社員で手掛けていると聞いて驚愕しました。月額でアウトソーシングして、質の高いプロのデザインが仕上がる間、社員はもっと生産性の高い仕事ができるはず。
予算は選手の年俸にもっていかれて、広報やマーケティングが使えるお金は限られている。何万回と、すり切れるくらい聞かされた言葉ですが、上の論理でいくと「コストはかかるけど利益が増えます」と言えれば、餅は餅屋で、しかるべきデザイナーに外注するほうが合理的だし、「利益を残す」というプレッシャーがかかっていい仕事ができると思います。
「それができればそうしてるよ」という声なき声が聞こえてきそうですが、これはもう「そうなるようにする」しかないと思っています。つまり、100%確証のある利益の残し方は、決して事前には分からず「やってみなけりゃ分からない」ということ。プレッシャーを感じながらやってみて、最初は失敗するかもしれないけどやり続けて、利益を残せるようになったとしたら?
サッカークラブに限った話ではありませんが、「時間」に対する意識と、その意識からくる意思決定は、社員の会社への貢献度にかなり大きな影響があると思われます。経費削減を否定はしませんが、自分の時間を切り売りして、生産性が落ちて結局赤字、自転車操業から抜け出せないなら、コストを削る意味がありません。
私たちは「時間」というロウソクに「命」という火をともしています。
火がともっている間、ろうそくは短くなりこそすれ、長くなるとは寡聞にして聞いたことがありません。火がともっている間はロウソクは常に短くなり、最後はやがて燃え尽きてしまうということを、常にイメージしておきたいものです。
失った時間は戻ってこない。時間には不可逆性があります。何に時間(命)を投入すべきかを今一度、真摯に考えずにはおれません。
久保大輔