スポーツは「遊」と「道」で構成されている
皆さんはスポーツしてますか?
ちなみにスポーツと聞いて、
どんなイメージが浮かぶでしょうか?
部活のようなちょっと
激しい(厳しい)目のやつから、
ジムにいって個人のペースで楽しむもの。
最近だとスポーツクライミングが流行りです。
登山、散歩、今だったら紅葉狩り。
フットサルだったら仲間との交流だし、
草野球も同じ。
いろんなイメージがあると思いますが、
「遊」と「道」
のバランスが楽しみを倍化させている
ように思います。
■「遊」
は言うまでもなく「遊び」
楽しいからプレイする。
楽しくなかったらいつでもやめられる。
そんな自由が同居しています。
誰からも強制されることなく、
誰からも抑制されることもない。
自分なりに時間をつくって、
友だちと時間をあわせて、
プレイと同じくらい大切にするコミュニケーション。
フットサルの後に飲み会があるのは
お決まりのシーンです。
■「道」
これは「求道精神」的なもの。
うまくなりたいという思い。
金銭的な報酬が一切なくても、
純粋なスポーツの快楽を求める傾向は、
私たち一般レベルのスポーツ愛好家
にまで浸透しています。
SASUKEというTV番組がありますが、
あれなんか「人生を捧げる」レベル。
家族や仕事を犠牲にしてまでも、
スポーツに没頭してしまう。
スノーボードが大好きで、
5時間かけて雪のある場所にいって、
1時間すべってまた帰るという弾丸を楽しむ友人もいます。
ちょっとズレるかもしれませんが、
サポーター文化も
似たような現象でしょう。
時間、お金、そして労力をおしまず、
観客を競技主体に同一化するような文化装置。
ゲームを外在的な観点からではなく、
選手の気持ちになって闘う。
ときにサポーターは、
「苦行」という言葉を使って、
自らの行為を肯定的に語ることがあります。
こんなにも応援してるのに
チームが勝てないとき、
ともに苦痛を分ちあい、
選手やサポーター同士の団結心を感じて、
友情をはぐくむ。
部活もそうかもしれません。
かつては水を飲むことも許されず、
何時間も炎天下で猛ダッシュを繰り返したことがありました。
サッカー部に所属して私にとって
当時の仲間は今も続く、人生の大切な存在です。
求道精神としてのスポーツは、
社会的な機能
も持ち合わせているような気がします。
■日本では、
大正時代に国体がはじまり、
スポーツはどこか国民全体の人格形成
に貢献するものというイメージが定着していきました。
日中戦争の泥沼化もあいまって、
全体主義的な色彩を強めていきましたが、
スポーツの日本化は、
大衆化と同時に推し進められ今にいたります。
部活動で体罰が問題になりますが、
「しごき」的な激しい指導によって
心を鍛えることはかつて一般化されていました。
成人になったスポーツ愛好家がいまだに、
「遊びに夢中になる」
それはこの、かつてのスポーツのイメージ
が影響しているのかもしれません。
生きるために走る必要がある動物とは違い、
生きるために走る必要がそれほどない人間が、
なぜそんな「ムダなこと」に
用意周到に計画し、努力するのか。
ときにケガを負ったり、体調を崩したり。
それでもあきらめない精神。
これらはすべて自己責任、
個人の意思で行っていること。
「遊び」と「道」が
行ったり来たりしている感じでしょうか。
■スポーツは
個人で行うものと、
団体で行うものがありますが、
いずれにしても
「他者」の存在なくして成立しません。
チーム内で切磋琢磨する存在、
そして相手がいなければ試合もできません。
他者は、
自分が少し気を緩めたり、
甘えてしまうメンタルを律してくれる存在。
自己満足を脅かす存在でもあります。
そういった他者の存在があるからこそ、
自分の殻をやぶって成長を実感できるんだと思います。
スポーツは、
自分と他者を寄り添わしてくれる
文化装置。
他者と競うからこそ、
自己中心性をうちやぶって、
世界を見ることができるのです。
■上述したとおりスポーツは
「遊」と「道」という相反する現実に
補助線を引くことで折り合いをつけ、
私たちに
楽しみを提供しているんだと思います。
そしてスポーツになくてはならない
他者の存在が、
人生を豊かにしてくれます。
こうやってスポーツを、
特に日本的なスポーツを因数分解して眺めていると、
悪くないなと。
ひたすらに「遊」を追求する
のもいいですが、
ちょっと「道」を意識してみることで
楽しみが熟成されていく気がしなくもありません。
今日も最後まで読んでくれて
ありがとうございました。
それではまた明日。
おつかれっした!
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