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「なんでもできます!」は「すべて中途半端です!」という宣言に等しい
あなたの芸風とは?
自分のスタイルといってもいいでしょう。
あなたのセンスはどこにあるでしょうか?
ちなみに、
スポーツの現場で起きている現象を
言語化できる(再現性をもたらす)
ことは私の芸風です。
サッカークラブに入社して感じたのは、
「よくわからないことばかり」
留学中はアカデミックな世界に
どっぷり浸かって、
ひたすら
具体と抽象の往復運動をしていました。
大学院でロジックを学び、
サッカークラブの現場に足を運んで
実践を目の当たりにする。
ロジックが骨組みなら、
現場で見る光景はさながら完成した建造物です。
外側を見るだけで、
内側の構造が分かるようになるには
かなり努力を要しましたが、
時間を味方につけて少しずつ
身についていったように思います。
そんな私が帰国して遭遇したのは、
暗黙知の世界。
スタッフの仕事は俗人化し、
デスクがとなりでも
その人が何をやっているか見当もつきません。
聞いても返ってくるのは
経験談ばかり。
個別具体的な事例が並ぶだけで、
その背後にあるロジックは影を潜めていました。
そんな環境だったからこそ、
ひたすら観察し、自分なりに言語化して
ロジックの引き出しを増やし、
いつしか「芸風」に
昇華されていったんだと思います。
周囲が言語化できる人ばかりだったら、
自問自答が生まれることはなく、
芸風は育まれなかったかもしれません。
言うまでもなく、
20年単位で蓄積された
具体的な経験はそれだけで強み。
私にはないものを持っている人が
横にいないと、
自分が持っているものさえ分かりません。
センスが育つためには
こういった切磋琢磨が決定的に重要になります。
■上のように書いたことで
優劣をつけようとしているのでは
ありません。
芸風の異なる人を意識して、
自分と比較して、
それによって自分の芸風を
確立するべく努力する。
周囲は私を見て、
自分たちの芸風を深掘りしたはずですし、
私も芸風に磨きをかけていきました。
この相互作用のプロセス、
これが本当の意味での切磋琢磨です。
また、
芸風が固まって立ち位置が決まると、
学ぶべきことが絞られて、
戦うべき土俵が明確になります。
つまり、やるべきことと
やるべきではないことの境界線がはっきりして、
前向きな割り切り
ができるようになります。
芸風に合わなければ割り切ってスルーして、
次を見据える。
自分ができること、
役に立つと思えることがあればそれは、
他者からの需要につなげられます。
芸風の間口には限りがあるので、
あまたある需要に全部応えることは不可能。
周囲のニーズを
すべて満たすことができなくて当然です。
「なんでもできます!」は
「すべて中途半端です!」という宣言に等しい。
プロとして生きていこうと思えば、
自分の芸風と心中するくらいの覚悟
がいると思います。
■「嫌ならやめればいい」
という言葉をよく耳にします。
仕事にしても勉強にしても、
嫌々やるくらいならやめて、
別の熱中できることを探した方がいい、
ということでしょうか。
同意できる部分もありますが、
大切なのは
「なぜ嫌なのか」
をちゃんと考えているかどうか。
嫌になる理由を説明できるまで
言語化できなければ、
自分なりの芸風がいつまでたっても
見えてきません。
嫌な理由が明確になるから、
そちら方面には行かなくなるし、
別の方向を歩けばまた
拒否反応が起きる。
都度都度、
「なぜなぜ」をくり返して言葉にして、
進むべき道が少しずつ絞られてくる。
これが「嫌ならやめればいい」の
本質だと思います。
芸風は一夜にしてならず。
今日の経験は
自分の芸風を固める材料になるかどうか。
アウトプットを毎日続けるという負荷は、
芸風を磨くプロセスの一部でもあります。
私もまだまだ道半ば。
というか何も始まっていません。
地道にコツコツ、
いまどき流行らないかもしれませんが、
一日ちょっとの努力を100日続ければ、
何もしない人と差がつくに決まってます。
今夜は18時から22時まで
4本の打ち合わせとコンサルです。
これから後半戦。
がんばりたいと思います。
今日も最後まで読んでくれて
ありがとうございました。
それではまた明日。
おつかれっした!