戦線の拡大が懸念されるガザ情勢④ - イスラエルによるヒズブッラーへの大規模工作の背景
ヒズブッラーは、ハマースによるイスラエルへの奇襲攻撃の翌日となる昨年10月8日からイスラエルへの攻撃を開始しており、今日まで1年近く戦闘が続けられてきた。もっとも、ガザ方面では4万人を超える死者が発生しているのに対し、レバノン方面ではレバノン側に1000人前後、イスラエル側に50人前後の死者と、ガザと比較すると被害は限定的な規模に抑えられている。これはイスラエルもヒズブッラーも全面的な戦争に発展することを避けようとし、攻撃対象も軍事施設や軍人・戦闘員を優先的な標的にしてきたことが影響している。また、双方は国境線を挟んで対峙し砲撃、空爆といった攻撃を主な手段としており、国境線を超えた地上戦はほとんど行われてこなかった。
しかし、ガザ戦争が長期化する中で、イスラエルとヒズブッラーとの間の緊張は徐々に高まってきている。特にイスラエルのラファ侵攻が開始された5月頃からイスラエル・ヒズブッラー間の応酬が激化しており、6月11日にイスラエル軍はヒズブッラーの西部戦線の指揮官ターリブ・アブドゥッラーを空爆で殺害した。同人は過去8カ月間の戦闘において殺害されたヒズブッラー幹部の中でもっとも高位の人物であり、ヒズブッラーは報復として2日間でロケット・ドローン約400発をイスラエル北部に撃ち込んだ。ヒズブッラーの攻撃が烈度を増していることを受け、6月18日にイスラエル軍の北部方面軍は、レバノンでの攻勢作戦計画を承認した。同計画が承認されたことにより、イスラエル軍は正式にレバノンでの地上戦を開始するための即応態勢を整えることになった。イスラエルのネタニヤフ首相は、ガザでの戦闘は間もなく一段落するため北部へと戦力を移転させることになると6月23日の時点で明言している。
その後、7月27日にはヒズブッラーの砲撃がイスラエルが占領するシリア領ゴラン高原の町マジュダル・シャムスのサッカー場に着弾し、少年12人が死亡する事態が発生、イスラエルは報復としてレバノン南部広域で大規模な空爆を実施した。そして7月30日にはヒズブッラーの最高幹部の一人であるフアード・シュクル軍事顧問がイスラエル軍の空爆により殺害される。ヒズブッラーはおよそ1カ月後の8月25日に、シュクル暗殺の報復として1日では過去最大規模となる320-340発のロケットと多数のドローンによる攻撃を実施したと発表した(イスラエル側の発表ではロケット230発、ドローン20発)。
イスラエル側の人的被害は抑えられてきたものの、ヒズブッラーの攻撃が連日続いていることから、イスラエル北部の住民およそ6万人が退避を余儀なくされている(レバノン側では10万人の避難民が発生している)。9月17日、イスラエルの安全保障閣議は、イスラエル北部住民の安全な帰還を正式な戦争目標に据えることを決定したと発表した。これは、昨年10月から掲げられている三つの戦争目標 - ハマースの殲滅、人質の帰還、ガザの脅威の除去に続く、四つ目の戦争目標となる。ヒズブッラーによるイスラエル攻撃はガザ情勢と連動しており、ガザでの停戦が実現すればヒズブッラーの攻撃も終結すると目されてきた。しかし、イスラエルが北部住民の安全な帰還を新たな戦争目標に加えたことは、イスラエル政府が軍事手段によってヒズブッラーの脅威を排除することを優先しようとしていることを示している。
9月17日と18日に連続して発生したヒズブッラーへの大規模工作が起きたのは、上記の文脈に基づく。報道によると、今年に入ってからヒズブッラーは通信傍受を防ぐために携帯電話の使用を制限し、ポケベル型の通信機器5,000台や携帯ラジオ等を調達、これを構成員に配布した。9月17日にはこの通信機器が一斉に爆発、12人が死亡し、2,750人が負傷する被害を出している。翌18日には、携帯ラジオやトランシーバー数百台が爆発し、25人が死亡、700人が負傷している。数カ月に渡って仕掛けた数千を超える爆発物を起動させ、死亡者が数十人に留まっていることは、この作戦にかかった人的・資金的なコストを考慮すると限定的な戦果しか挙げられていないように思われる。しかし、ヒズブッラーとしては、自らが大量に調達した通信機器に爆発物を仕掛けられたことは情報戦における屈辱的な失態であり、重大な浸透を許してしまったことへの衝撃があることは間違いない。暗殺工作の手段として身近なものに爆発物を仕込むことは古典的な手法ではあるが、これをここまでの規模で仕掛け、一斉に起爆させるというのは前代未聞のことであり、イスラエルの諜報・工作能力の高さを示したことになる。
イスラエルとヒズブッラーの対立が激しくなる中で、イスラエルがより無差別的で破壊的な攻撃・工作を用いたことは、双方の全面的な衝突のリスクを一層高めている。先に言及したようにイスラエルはレバノン方面の脅威の排除も正式な戦争目標としたことから、地上侵攻の開始も辞さない覚悟でより大胆な手段を行使する動機が生じていると言えよう。
しかし、数カ月に渡って仕込んできた虎の子の仕掛けをなぜこのタイミングで使ってしまったのか、その意図は必ずしも明らかではない。数万人から10万人といわれるヒズブッラーの構成員数千人が攻撃の対象になった今回の工作は、むしろ地上侵攻の開始と同時に実施していれば、相当の混乱を引き起こすことに成功していただろう。これを単発の破壊工作として終わらせてしまい、更にはヒズブッラーの警戒度を大きく高めたことは、イスラエル側に不測の事態が発生して起爆を優先させたのか(Al Monitorはヒズブッラーの構成員が通信機器に爆発物が内蔵されていることに気づいたことが起爆を急いだ理由だと報じているが事実関係は不明)、あるいは他の目的があって何らかの戦果を得られたのか、現時点では窺い知れない。
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