華々しき光景と、いくつかの印象的な歌(佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2023 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」感想文)
公演「佐渡裕芸術監督プロデュースオペラ2023 歌劇『ドン・ジョヴァンニ』」(兵庫県立芸術文化センター)に行ってきました。まず、私は「METライブビューイング2016-17 モーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》」[i](以下、「MET 2016 版」という)の録画を繰り返し視聴してから、本公演に臨みました。すべての歌について、数秒聴いただけでそれぞれの場面を思い浮かべられる程、この録画を熱心に視聴しました。「MET 2016 版」は世界最大級の歌劇場であるメトロポリタン歌劇場[ii](以下、「MET」という)にて催された、とてつもなく豪華な公演です。タクトを振るのは NHK 交響楽団の首席指揮者を務める Fabio Luisi[iii] であり、キャスト陣も Simon Keenlyside をはじめ、一流所ばかり。私には、前提として「MET 2016 版」の素晴らしい音と映像があり、後述するように、本公演の鑑賞時にも、これと比較せずにいられなかったところがあります。
さて、本公演の感想です。劈頭に、演出が秀でていたことを挙げさせてください。オペラにおいて、基本的に楽譜と脚本はオリジナルから変えられませんが、その他は制作スタッフの自由です。そのため同じタイトルであっても、公演ごとに時代設定やキャストの動き等が大きく違い、ある公演を観てそれまでの印象を覆されることが多くあります。本公演の演出はかつて MET で主席演出家を務めていた David Kneuss が担当し、装置と衣装は MET を始めとする主要な劇場で仕事をしてきた Robert Perdziola のデザインです。この二人の仕事は、私にとって大アタリでした。幕が上がってすぐに現れるドンナ・アンナの屋敷は、大きな窓に緑がこんもりと茂ったデザインで Jean Honoré Fragonard の《ぶらんこ》を思わせます。かくも甘美な外観の中で陰惨な性暴力が行われようとしていると考え、落差にゾクッとしました。しかし建物や衣装がロココ調かと言えば、そうではありません。パンフレットによれば、本公演では 20 世紀半ばのデザインを踏襲しているようです。20 世紀半ばと言えば Paul Poiret や Coco Chanel 等の出現を経て、オート・クチュールの最も華やかなりし時代ではないでしょうか。本公演におけるこの選択は、優れたアイディアでした。「MET 2016 版」は、恐らく初演時のスタイルに則ったオーセンティックな衣装に、これどもかと言う程の豪華な装置を用意した演出でしたが、本公演は、正統的でありながら現代人である私たちが身近に感じられる、ちょうど良い塩梅の演出だったのです。しかも華々しく、明るい色調が始終目を楽しませてくれました。とりわけ、ドンナ・エルヴィーラのモダンなシルエットのスカートは目立っていて、今でも目に焼き付いています。
演奏と歌は、率直に言えば「MET 2016 版」と引き比べて、精彩に欠けるところがあったと感じました。明確な欠点があったとは言えませんが、全体的に音が弱かったという印象です。これは比較対象が強すぎたため、仕方がないのかもしれません。とりわけ序曲や、<カタログの唄>や<お手をどうぞ>に関しては、期待をし過ぎた余りに肩透かしを食らったと感じます。また、ドンナ・アンナの大アリアである<仰らないで>は、高音域での激しいコロラトゥーラが魅せどころの華美な歌ですが、本公演の Michelle Bradley はそこに難があったように思えます。もっとも、歌い終わりに「ブラヴォー!」の声が上がっていたため、私が聴き手として未熟なのかもしれませんが。……とはいえ、すべてが期待外れというわけではありません。第1幕の掉尾及び第2幕の第9場の重唱はいずれも迫力があり、前もって期待していた私にも納得の場面でした。アリアでは、ツェルリーナ役の Aleksandra Olczyk が歌う<ぶってよマゼット>が見事でした。これは私がとても好きな歌なのですが、彼女はツェルリーナの甘ったるく小悪魔めいた色香を余すところなく引き出していたかと思います。その他 David Portillo のドン・オッターヴィオは綺麗な高音にセクシーな輪郭が備わっており、<僕の宝のあの人を>も難なく歌いこなしていたし、マゼットを務める近藤圭も、バリトン歌手でありながら堂々たる低音を出していた印象です。そんな中で最も強く印象に残ったのが Heidi Stober の<あの恩知らずは約束を破って>です。これはかつてドン・ジョヴァンニに捨てられたドンナ・エルヴィーラが、彼の破滅を前に、裏切られたことに対する恨みと、それでもなお彼を忘れられない未練で矛盾する心境を吐露した歌です。Heidi Stober はこの複雑な葛藤を、澄み切ったソプラノ・ボイスに微妙な高低を含めて、見事に表現していたかと思います。「MET 2016 版」で予習済みであるにもかかわらず、初めて聴いたかのように身震いしました。また、前述のとおりドンナ・エルヴィーラの衣装が目立っていたこともあり、ここに来て彼女がこの物語のプリ・マドンナなのかと錯覚した程です。
最後に、演出の話に戻りましょう。パンフレット等によれば、本公演は正統的かつ普遍的な『ドン・ジョヴァンニ』を謳っているようです。鑑賞をして、まさしくそのとおりだと感じました。底抜けに明るく、喜劇的な場面では実際に多くの笑い声が上がり、反対に悲劇的な場面は登場人物の感情が炸裂して、大きな迫力を湛えているようでした。また、前述のとおり衣装のデザイン等が身近に感じられるため、「MET 2016 版」よりも登場人物の振る舞いを自然に感じ、感情移入がしやすかったです。実は、私は本公演で初めてオペラを生で鑑賞しました。その機会に相応しい、しっくりくる『ドン・ジョヴァンニ』だったと思います。
[i] 原題は “The Metropolitan Opera HD Live Season 11, Episode 2: Mozart: Don Giovanni”
[ii] ウィキペディアの執筆者,2023,「メトロポリタン歌劇場」『ウィキペディア日本語版』,(2023 年7月 15 日取得,https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%A1%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%82%BF%E3%83%B3%E6%AD%8C%E5%8A%87%E5%A0%B4&oldid=94232584).
[iii] 2023 年7月 16 日現在
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