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『つながっていいとも』木曜日 第22回 元PL学園高校球児 もつ鍋やま本 山本龍之介さんによる「野球親子が100年続くもつ鍋屋を目指す思い」

オンライン配信「つながっていいとも」木曜日第22回のまとめです。
今回は、第21回ゲスト S-RISE野球教室主宰 稲川剛(いながわ たけし)さんによる「野球から離れられない理由」のご紹介、元PL学園高校球児 もつ鍋やま本 山本龍之介さんによる「野球親子が100年続くもつ鍋屋を目指す思い」です。
見逃された方は、こちらから!

「つながっていいとも」とは

今年の5月30日に、電子チケット会社「Peatix」主催で配信した24時間オンラインチャリティイベント『HELLO, NEW NORMAL」の中の1コーナーのスピンアウト企画です。

「オンラインでも出会える!話せる!つながれる!」をモットーに、「新しい時代のつながり方」を実践されている方をお招きし、18分間おしゃべりしています。

配信は、あの伝説の番組の名物コーナー同様、ゲストに次のゲストをご紹介いただいてシメ、となります。

MCは日替わり。火曜日はPeatix共同創業者・藤田祐司さん、水曜日はTokyo Work Design Weekオーガナイザー・横石崇さん、そして木曜日はコミュラボ幹事・辻貴之がモデレーターです。

第22回ゲスト 山本龍之介さんとは

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1993年4月6日生まれ 27歳
兵庫県神戸市出身
神戸須磨クラブからPL学園へ(甲子園出場なし)

野球を始めたのは、父が元プロ野球選手(山本誠:阪急ブレーブスに1986年にドラフト二位で入団の投手)だったこと。
甲子園でホームランを打ちたいと夢を抱き野球に取り組む。

現在は、実家が経営するもつ鍋屋「もつ鍋やま本」で働く。
神戸に3店舗、大阪京橋に1店舗、計4店舗を経営。

山本龍之介さんの自己紹介ー元プロ野球選手を父に持つプレッシャーの乗り越え方ー

現在27歳。PL学園には10年前に在籍。選手時代は外野手として、レフトかライトを守っていた。今は大阪京橋のもつ鍋屋に勤務。

父は清原さん、桑田さんと同世代で、明徳義塾から甲子園に出場。(その後、ドラフト2位で阪急ブレーブスに入団。引退後、もつ鍋屋を開店。そのお店などの)周りにPLの人が多かった。家には野球道具があった。お店に会いに行くと野球関係者が多く、キャッチボールなどをよくやった。テレビも野球がついているなど、野球に囲まれていた。

ーお父様がプロ野球選手だったことなどのプレッシャーの乗り越え方は?

父は188センチと大きかった。自分も今は177センチ、小学校ですでに160センチと大きかった。(その体格と)プロ野球選手の息子のだからできて当たり前と思われるプレッシャーがあった。

それを乗り越えられたのは中学校の時。今、広島でプレーしているすごいレベルの選手などと一緒にレギュラーで出られた時に、やれるかもと思った。

ー中学校で活躍後、PL学園に進学。どんな日々?

1年目はよくわからなかった。上下関係があり、練習が9:30から14:30まであった。その合間に自主練に掃除に洗濯があった。何が起こったのかわからない1年目だった。夏に山田哲人さんが履正社に負けた後の、2年生以降の新チームより出場した。

ー試合に出る前はどんな気持ち?

PLに入る前から、映像を見てイメージしていた。入ってからは、PLの選手として見られる。誇らしいと思いつつ、不安もあった。(その不安はどのように乗り越えた?)やっていくうちに乗り越えた。やっていくうちに乗り越える人や、感じるタイプ、やりながらしのぐ人など、いろんな人がいる。自分は、やっていくうちに乗り越えるタイプだった。

夏の新チームになってすぐの試合で、レフトフライを落とした。その後に代わりの選手が出場したため、自分は直後の秋の試合からベンチを外れた。その後の近畿大会は、夏の代打で1回出たのみ。

ーそうした中での気持ちの維持の仕方は?

2つ上にプロ野球に進むすごい人がいた。そこには届かないかも、と1年生や2年生で感じていた。「野球を辞めた後の人生の方が長い」と、常々周りの人に言われていた。父とも話した。「ここから勉強だ。これからいろんな人と関わる。だから野球だけでない、自分を生かしたいと周りから言ってもらえるような取り組みをするように」と言われた。

「野球しかやってこなかった」という勢いだけで生きていけないことはよくわかった。まずは本を読み、字を描く練習をした。字が汚いと、何を書いても読んでもらえない。言葉を理解してもらわないと、と思った。そして、社会をある程度理解しなくてはと思い、いろんな本を読んだ。

ー印象に残った本は?

10人の人の修行について書かれた本。飲食店、技術者などいろんな人のメンタルの持ち方などが書かれていた。自分から見れば成功しているが、書かれている人は誰も自分は成功したと思ってない。周りが評価しても、自分はまだ、と思って努力を続けられるような人にならねば、と思った。まずは今のことに一生懸命に取り組むようになった。

なぜ、家業のもつ鍋屋へ?

ー大学でも野球を?

社会人では実力的に野球はできない、門が狭い、と高校生の時にチラついた。なので大学では「もう無理」と思えるまで頑張ろう思ってやった。そしてやはり(野球を続けていくことは)無理だと思った。

野球をやっているうちは、父を目標にしていた。家での父は、家族ではなく上下。野球をやっているうちは敬語、今も敬語。社長と社員だから。大学を卒業し社会人となった。

就職のタイミングで、飲食業へ進んだ。その間だけ、上下関係がなかった。その時に、父と車に乗っている時に「100年続くもつ鍋屋をやりたい」と言われた。それまで聞いたことがなかった父の思いだった。自分自身、父のもつ鍋が好きだった。小さい時から全国で、就職してから東京でもつ鍋を食べ歩いた。それでも父のもつ鍋が一番だと思っていた。

なので、これはやれるのでは?と思った。そんな父の気持ちがあるなら、つないでいければできるのでは、と考えた。父が生きている間は難しいが、生きてきた証を残すことはできる。

ーひとときの「より家族だった時」に交わした会話が、その後の山本さんの人生を決めた、ということ?

その通り。100年続けるには、働いている人、綺麗さなど、いろんな要素がある。外部的な環境の変化や資金繰りなども影響する。コロナ前に取り組んでいたことがつながっている。一瞬一瞬をちゃんとやる、これをやるしかない。

ー大変だったことを乗り越える時に、野球から学んだことで活かしていることといえば?

しっかり準備をし、こうなるからこうなると考えておくこと。準備しないのは、だめ。理想を追い求めすぎず、今を追いかけることが、将来につながる。それが苦しいことを乗り越える唯一の方法。

第23回 難波清秀さん

1つ上のエースピッチャー。すごい玉を投げていた。兵庫出身。PLに兵庫出身があまりなくて優しくしてもらって、救われた。

(難波さんから見た山本さんは?)めちゃくちゃ真面目。ザ男。カチカチにせんでえーやん、と思っていた。性格の良さが滲み出ていた。

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MC後記

「プレッシャーに打ち勝っている人」…プロ野球選手だったお父様を持ち、周りから「野球ができて当たり前」と思われたプレッシャー。憧れのPL学園での野球をする重圧。そして、上下関係が一瞬途切れた時にお父様がおっしゃった「家業であるもつ鍋屋を100年続けたい」という思い。いずれにも、先を考えながら、今に集中することで打ち勝ってこられました。

いつか、全国のもつ鍋屋を食べ歩いてもなお「お父さんのもつ鍋が一番美味しい!」という山本さんのもつ鍋を食べるのが楽しみです。

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