性欲は快速列車、愛は各駅停車。
ある朝歯を磨きながら、「性欲は快速列車で、愛は"行き先不明"の各駅停車」だとふと思った。
性欲は基本的にゴールが明確で、そこに辿り着くために踏むべきステップもある程度明確だ。ゴールまでに踏むべき基本的な工程、工程というと夢がないが、多くの人が通る道筋が示されており、それが世の中の多くの人の間で共有されている。ある種マニュアル化されていると言ってもいい。事実、性的なゴールに辿り着くためのHow-To本や情報商材が流通していたりする。ゴールが明確で、そこに効率的に辿り着くためのプロセスもある程度明確に整理されている様が、快速列車に似ている。通勤快速であれば行き先は勤務地(大都市であることが多い)であり、そこに向かうまでに一切の無駄がない。主要駅以外の駅には停車せず(ある意味で切り捨てられ)、文明を感じるには十分すぎるスピードで目的地まで突っ走る。一度乗ったら、途中の小さな駅で降りたいと思っても降りられない。車窓から外の景色を眺めて、「あんなところに素敵なカフェがあったなんて」と幸せの種を見つけたとしても、次の瞬間にはそのカフェは視界から消え去り、自分の脳内からも消え失せている。死ぬ直前までそのカフェに通い続ける世界線があったかもしれないというのに。
一方、愛は行き先不明の各駅停車である。どこに向かうべきかも分からず、でも先の世界を見たいからとりあえずその列車に乗り続ける。ゆっくりと時間をかけて1駅1駅進む。途中で気になるカフェを見かけたら、次の駅で降りて反対方向の列車に乗って戻ればいい。愛には踏むべきステップなどない。ゴールが明確ではないからだ。というかそもそも、愛という概念自体が曖昧なものかもしれない。性欲は、手順書に落とし込めるような行為をゴールに置けるが、愛は何か特定の行為をゴールに置けない。難しい。「愛とは許すこと」だと誰かが言っていた。確かにそうだとも思うし、そうじゃないとも思う。別の誰かが「愛とは与えること」だと言っていた。与えすぎることで相手の自律性が損なわれるなら、それは愛じゃなく、相手を自分に依存させているだけだと思う。"ダメ男製造機"がその代表例である。世の中に流布している愛についての言説に耳を傾けつつ、それを真に受けるというよりかは、その言説を受けて自分の内に湧き起こる意見・反応を見つめ、愛についての理解を深めたい。
快速列車と各駅停車の問題は、"間違えて乗ってしまうこと"に他ならない。各駅停車だと思って乗り込んだ列車が、快速列車だと気付いたときにはもう目的地を通り過ぎているなんてことがままある。性欲と愛も同じだ。相手のことが好きで好きでたまらないという感情を、愛と認識して表現するが、後々冷静になればその感情は性欲だったと気付くことがある。この現象は特に、相手と出会って間もない時期に起こりやすいのだろうか。性欲が性欲のまま終わることもあるし、愛に昇華することもある。相手のことを知っていかなければ愛に昇華しないのだとすると、性欲は相手を知る初期段階で非常に有効なモチベーションとして機能する。モチベーションはモチベーションでも、生物として最も強いモチベーションの1つなのだから、その分人を突き動かし冷静さを失わせる力も強い。大事なのは俯瞰することだ。興奮している自分を冷静に俯瞰し、その時点の自分の感情が愛と性欲と、もしくはそれ以外の感情とが、どのような比率で混ざりあった状態なのかを見極める。見極めて、その感情に可能な限り適した言動をとる。性欲で頭がいっぱいなのに「愛してる」だなんて言っちゃあいけない。逆にゆっくり愛を育みたいなら、性欲に溺れてはだめだ。相手の限りあるリソースを尊重する心が少しでもあるのなら。
最後に、保険をかけたい。24年しか生きていない人間の、愛や性欲に関する解像度なんてこんなものだ。また、内容がセンシティブ寄りである・例外を多分に含むため、抽象的な表現をあえて多く使った。それが分かりづらさを増していることを反省している。哲学書などを読んだりすると、抽象的な概念をこんなにも分かりやすく伝えることができる人がいるのかと、頭を抱えてしまう。こうしてそのときそのときの自分の考えをまとめておくことは、僕にとって未来の自分にエンタメを提供する行為に等しい。過去の自分が書いた文章というのは、ちゃんと"自分"であるからこそ自己連続性を高めてくれると同時に、自分とは別の存在が書いた文章として新鮮に楽しめたりもする。
今日もワンルームに置かれた丸テーブルで、未来の自分に向けてエンタメを仕込む。
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