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翻訳について

うれしいことが一つあったので報告しておく。劇団のメールアカウントにはるか遠くブラジルから問い合わせがあった。一瞬スパムメールかと思ったけれども、よく読むとまだ勉強中という感じの日本語と、英語でのメッセージがそれぞれ書いてある。

いま日本語を勉強中で、その勉強のために劇団なかゆびがYouTubeにアップロードしている戯曲研究会の動画(イプセン『人形の家』)を見てくれていたらしい。ただ、所有している日本訳の書籍と、動画で使用しているテキストが違うので、どの翻訳なのか教えてほしいとのことだった。

こうして動画にして、#JapaneseTheatre#Ibsen とちゃんとタグもつけておいたから、その学生に届いたのだろう。ブラジルの人に聞こえていたというわけである。わざわざメールをくれた学生さんにとって、少しでも今後の役に立てばいいなと思うし、やっていてよかったと思う。これだけで、一つの目的が達成されたような気分である。ちなみに、劇団なかゆび戯曲研究会の動画は、チェーホフの再生数が少し多い。たぶん増加した時期的に、『ドライブ・マイ・カー』の影響だと推測できる。

動画で使用しているのは、矢崎源九郎さんの翻訳で、新潮社から出版されているものだ。この翻訳を僕が選んだのは、単純な話で著作権が切れているもの(翻訳者が没後70年が経過しているもの)のなかで最も新しいと思われるからだった。もっと古いものだと、森鴎外によるものもある(タイトルは『ノラ』になっているとか)。

森鴎外は、『翻譯に就いて』という短い文章を残している。基本的に愚痴のような内容で、文章の最後は「此二三日の暑さは非常である。何一つ纏まつた物は書けない。そこへ来て書け/\と責められて、こんなくだらぬものを書いた。どうぞ惡しからず」と締めている。

ノラの食べる菓子を予はマクロンと書いた。それを飴玉と書けと教へて貰つた。これなんぞにはあつとばかりに驚かざることを得ない。

日本固有のもので、ふさはしいものにして書けと云ふ教であるが、予なんぞは努めて日本固有の物を避けて、特殊の感じを出さうとしてゐる。

ゆび研でも、坪内逍遥の翻訳でシェイクスピア『お気に召すまま』を読んでいるときに、「相撲」という単語が登場してやや混乱した。ほかの訳で確認してみると「レスリング」とある(確か松岡和子訳)。なるほど、逍遥が訳出した当時に、レスリングといって理解できる日本の観客は少ないから、なんとなくわかりそうな「相撲」にしたのだろう。もちろん、今の日本ではレスリングと言われても、誰だってイメージくらいは沸くはずである。このようなことを動画でしゃべったと思うけれども、よくよく考えてみれば、私はレスリングのルールがまったくわからない。吉田沙保里選手がすごく強いということくらいしかわからない。これで理解しているといえるのだろうか。「レスリング」と言われて「わかる」というのは思い込みではないだろうか。

なるほど、シェイクスピアで想定される「レスリング」とわれわれがオリンピックで見ている「レスリング」は違うかもしれない。とはいえ、結局、組み合って押し合うスポーツという程度の理解でしかない。ならば、「相撲」と訳出している逍遥の翻訳をそこまで馬鹿にできないのかもしれない。

森鴎外も、ゲーテ『ファウスト』の翻訳において、奇妙な訳出がある。マルガレーテ(グレートヒェン)が「トゥーレの王」を歌う場面の少し前。若返ったファウストに初めて声をかけられた直後である。ト書きには、辮髪(べんぱつ)を編み結びなどしつつとあり、ファウストのことを「きつと好い方だわ」などと言う。ほかの訳では「髪の三つ編みを結びながら」のように書いてある。ドイツ語で、辮髪を調べてみると、Zopf(ツォップ)もしくはChinesischer Zopfというらしい。Zopfが単に女性の編んだ髪、三つ編みのことで、パン生地を三つ編みにして作ったパンを言われれば確かに見たことがあるものだ。森鴎外は何を思って辮髪と訳したのだろうか。考えても、あまり利益があるようには思えないが、4年前からずっと引っかかっていることだ。

まだ全然ドイツ語がわからないので、いろいろ検索していると"Gretchenzopf”なるものが出てきた。Youtubeではきれいな三つ編みのやり方を解説していたりする。ウクライナの件で話題にあがる、ティモシェンコさんがやっているヘアースタイルのことようだ。比較的オフィシャルな場でやる髪型なんだろうか。わからないので知っている人がいたら教えてほしい。かりに、このヘアースタイルのことを、辮髪と訳したのだとしたら、やっぱりこれは誤訳ということになるのだろうか。辮髪のほうは、清王朝時代の男性がやる髪型だ。この風習の由来にもいろいろあるようだが、やはり「一般的なイメージ」では清の時代の中国人の男性のヘアースタイルだ。

「一般的なイメージ」と言ってみた。これも結構暴力的なところがあるので気を付けなければならない。しかし、20代前半は使わないようにしていた「一般的な」という言葉の便利さについつい頼ってしまうようになった20代後半である。大学のレポートや論文は、論理的緻密さがどれだけ追求されているかという一点勝負だった。読むのはたった一人、多くても三人程度の学者である。ところが、もっと多くの人に向けた文章ということになると、事情が変わってくる。ボヤっとした言い方でも、「相手が理解した気になるような」もののほうが求められることがある(求められるだけかなりマシだとは思うけれども)。だから、妥協して、「一般的な」とか「とも言えるのではないでしょうか」とか雑味を増やしていく。

言語は、こうして見ると大雑把なものに思える。翻訳は破壊と創作を同時に行う作業である。なんとなく、ふわっと、イメージで、それっぽく。どこかで立ち止まらなければならないとも思う。経験を積むことで、「これが正解だ、言葉というのはこういうものだ」と独断して、勘違いしないようにすることが最も難しい。つまり、やはり、カントを読まなければならなかったということになる。

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