なぜ同じエンタメをやっている人の中で噛み合わない議論が生まれるのか?
前提としてこの話は作品の良し悪しについて伝えたいわけではない。
音楽やエンタメに関わる人の間では頻繁に
「あの作品はお客さんの事を考えていない」
とか
「演者がヘタだからダメだ」
といった議論がなされる事がある。
その話をしている人がお客さんならそれは何も止めない。
視聴者には作品についてただただ思った感想を喋る権利がある。
だが、提供者側が
こういった話をしている光景にいささか腑に落ちない感覚がこれまであった。
「それはそうなんだけど、その作品の良さはそういう事じゃないんだけどなぁ」
という感覚。
先日、音楽の研究論文をひたすら書き続けている友人と話している際にこの腑に落ちない感覚の正体が掴めた。
音楽に限らずエンターテイメントの業界に1つでも有意義な議論が増える事を願って今回(風呂に入りながらではあるが)執筆する事にした。
どちらかと言えば僕の専門ではないが、
世の中には「演奏する事を目的に作られた曲」が数多く存在する。
これらの曲を一般のお客さんが聴く事は稀で
音大生やプロフェッサーと呼ばれる人々がコンクールなどで演奏したりするものだったりする。
つまり音楽家に向けたものなのだ。
そう考えると「演奏するために作られた曲」にお客さんを感動させるため演出を求めるのは手段として適していない様に思える。
演奏する事を目的に作られたなら「演奏技術を見せる事」を突き詰めるのにも意味がある。
難解な表現や手法が入るのも適しているといえるだろう。
一方でその作品が作られた目的が
「お客さんを感動させるために作られた作品」であれば技術的に上手くてもお客さんに理解されなければ意味がない。
技術は本質ではなく、より伝わりやすくする為の手段でしかなくなる。
難解であればあるほどお客さんを感動させるという目的からは遠ざかっていく。
「商業的にお金を産むための作品」
にも同じ事がいえる。
どんなに技術的に上手くても人々の心を動かそうとも利益に結び付かなければそれは「いい趣味だね」と言われて終わる。ここでは作品自体ではなく、その届け方や仕組みが重要である場合が多い。
この様に「音楽」という同じ表現手段を使っている場合それぞれの共通点が多く生まれ、同じ土俵で話をしていると錯覚してしまう事がよくあるが、根底にある本質は全く違うのだ。
もちろん100か0かという話でもないので
作り手の狙いの中に「お客さんを感動させる事で利益を上げたい」といった場合もある。この場合の最優先の目的は「利益を上げる事」でそのために「感動させる」という手段を使っているというわけである。
手段は場合によっては切り捨てて別の手段に切り替える事ができるが、目的が変わるとそのプロジェクトは別のものになる。
そしてこの記事の本題である話の食い違いが起きる原因だが、
同じだと思っている土俵の違いが議論の食い違いを起こしている。
このケースが非常に多い。
手段が似通っていても作品を作る目的の違いは根本的な土俵の違いになるため話が噛み合わなくなってくる。
同じ音楽の話なのに
一方は手段の話をし、
もう一方は目的の話をしている
という状態だ。
有意義な議論をするために押さえておくポイントとしては
'お互いの土俵とジャンルを把握した上で共通するテーマを見つける事'
ジャンルが違っても同じ土俵で戦っているものは数多くある。
使っている表現手段が
音楽なのか、
絵なのか、
舞台なのか、
はたまた飲食店なのか。
本質的に重要なのはそこではない。
・同ジャンル×違う土俵
・他ジャンル×同じ土俵
・同ジャンル×同じ土俵
・他ジャンル×違う土俵
どんな議論を行うかによってそれぞれ適した組み合わせが必ずある。
これは議論だけに限らず仲間探しにも近い事が言えるが、長くなるのでここでは割愛。
この事を考えれば今あなたがやろうとしている事に対してどの組み合わせの人と議論を交わす事が有意義であるかが見えてくるだろう。
専門的な事は土俵が違えど同じジャンルの人と話をした方がいい。
方向性やアイデアが欲しいならジャンルが違っても同じ土俵の人と話をした方がいい。
共に手を動かすならジャンルも土俵も同じ人の方が効率的だろう。
時にはジャンルも土俵も違う人からヒントをもらえる事も少なくない。
是非ご自身の活動と照らし合わせてどんな人とどんな議論を交わす事がより有意義な議論になるのか想像を膨らませてみてほしい。
この記事があなたの活動を少しでも後押しするものになればこの上なく幸いだ。
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