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流れる世界と自由意思 映画「悪は存在しない」感想

(ネタバレありです。要注意)

何とも形容しがたいディープインパクト。

え?これで終わり?というエンディング。

冒頭からの不気味で美しい自然と花ちゃんと巧の描写。

グランピングを巡る対立は、村の人にも、都会の開発側にも、どんな人にも色々な事情がある中で生きてるってのが分かりやすく描かれてたし、もちろん、そこには悪は存在しない、というのは分かりやすく分かりやすいけど、それとエンディングは何がどう繋がってんだ?

最後のシカは何?イメージ?リアル?花ちゃんには、一体何が起こった?手負いの鹿に近づいて…という展開なのか?なぜ帽子を脱いだ?

「悪は存在しない」

それにしても、このタイトル、うまい。映画を見ている間中、映画を観る際の補助線みたいに機能する。

人も結局、環境の中で生きてると言うと、わたしが感じたこととは、なんかズレちゃうんだよな。人も環境に活かされてるとか、そういう表層的な話じゃなくて、なんというのか、人は皆、何処かからやってきて、今生きている場所で今生きている。その環境というか土地だったり空気だったり光だったり水だったり、また人工物も含め長い歴史の中で作られてきた環境・自然と、さらに言えば、そこに存在する他者から逃れがたい影響の下に生きている。そして人がそれを意識するのは難しい。

映画の中に出てくる話で印象に残ったものの一つに、水は高いところから低いところに流れていく、そして上流で起こったことは必ず下流に影響を与えるという話がある。これにも重層的な意味が持たされてるように感じる中で、わたしにとって一番魅力的な意味合いは、過去から現在そして未来への時間の流れの表象なのでは、と感じられたことでした。

そう思うと、人間は結局、過去からの歴史の延長線上にあって、自分が今生きている自然・環境の中で、ひょっとすると、人間自身が思っているほど自由意志で自己決定しているわけではなく、大きな流れの中を流れているに過ぎないんじゃないか。だから、そこには「悪は存在しない」。

だから、エンディングも理屈も何もなくていいかな、というのが個人的な感想です。花ちゃんがいなくならなければ、高橋がついてこなければ、(鹿がリアルだとして)鹿と出会わなければ、全く違うことが起きていたはず。あの土地で、あの時間で、あの状況で、あのようなことが起きた。ただそれだけ。

何より、この映画の素敵なところは、映画を見ている間はエンターテイメントとしても凄く楽しめることに加えて、映画を見終わった後も、自分の中の探索を楽しめるところであり(そして、その探索は観る人によって全く異なるようにも思うし)、観るたびに、特にもっと歳をとって異なる経験を経てから見たりすると、ひょっとすると全く違う探索を楽しめるかもしれないと思わせてくれるところです。

なんか、とっ散らかった感想ですけど、「悪は存在しない」という映画の感想としては、とっ散らかったままなのも、いいような気がするので。

(画像は、 TOKYO ART BEATより。https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/evil-does-not-exist-movie-review-202404


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