夢が当たり前に叶ってしまう時代の生き方:試案v1【完全無料】
いつも技術的な記事が多いが、今日は少し趣向を変えてみる。
元々私は自由気ままに思うがままに記述する古典的なブロガー系で、アフィなどでガッツリ稼ぐ系でもない。
一つのことに絞って書くような作り方ではなく、自由に書く方針でこのnoteもやってみたいと思っているので、ご了承願いたい。
さて、生成AI時代、そしてこれからやってくるロボットやBCIの時代は、殆どの「将来の夢」を即座に叶えてしまうことのできる時代である。
今回は、そんな時代の「生き方」の問題に正面から取り組む試みである。
これまで
これまで、多くのおとぎ話では、結びはこうだった。
夢が叶ったので、そのまま一生幸せに暮らしましたとさ、というハッピーエンド。
これは、夢が叶う人が少なかった時代の産物であり、「夢が叶えば幸せになれる」という、叶えにくい夢を追う人への希望をばらまくものだった。
そのおとぎ話のアニメーション化を手掛けたディズニーが、それらをテーマパークとして具現化したディズニーランドは、夢が殆どの人にとって決して叶わぬものであったがゆえに、夢と魔法の国たりえた。
それがAI以前である。
近代という神話は労働者階級の勤勉さに支えられていた。
彼らを勤勉足らしめるために、「ハードな目標も努力すれば叶う」というストーリーが必要だった。
そして、そのストーリーは、人口の99%にとって、近づくことはできても届かないものだったがゆえに、意味を持っていた。
しかし、既にこれまでの時代においても、実際に夢を叶えた人は気づいていたはずである。
現実の人生は、幸福の頂点に達した後も続く、ということに。
生成AI以降
生成AI以降では、多くの夢は「あっさり叶う」ものになろうとしている。
まずそれが発生したのが、NovelAIDiffusionから始まった「うちの子」界隈のイラスト系AIのユーザーである。
彼らは、自分好みの女性をひたすらに描くことができるようになった。
中にはそこでnsfwまで踏み込んで、自身の性癖を追求し続ける人々もいるようである。
同じような、アートとして欲しい何かを形にできる傾向は、最近は音楽生成AIでも見られるようになってきている(SunoやUdioなど)。
次にそれが形になってきたのは、第一回AIアートグランプリ優勝作品が象徴的な、「死者の復活・死者との再会」の領域である。
最近では日本でも、AIによる死者蘇生をビジネスとしてやろうとする試みもあるらしい。
世界では、各国レベルで既にそのような動きはいろいろ出ているようである。
続いて、AI美女領域。
…正確には、個人レベルではBazilMixやChilloutMixよりも前に既に人工彼女として実現していた領域だが、これがリアル系生成AIモデルによって大衆化されて、より普遍的に、生身の人間では到達しえない領域の美の過剰生産が発生した。
AI美女画像集の勃興と衰退の後、最近ではディープフェイクで自身をAI顔に盛って動画配信するなど、SNSでAIインフルエンサーになって収益化するという動きが活発化しているようである。
そして、LLMの時代。
言語化できるものなら指示に沿って大半が瞬時に作成できる。
人格すらも、言語化できる限りにおいては例外ではない。
最近では、「明晰に言語化できる人とコードが書ける人だけの特権」だったLLMを思い通りに操る能力の民主化の動きも活発化してきている。
○○式プロンプトとして様々な流派を持つ構造化プロンプトの探求や、Anthropic Prompt Generatorのようにプロンプトを生成する装置、CreateやZoltraak/Niwatokoのように、簡単な命令から実行可能なコード(将来的には現実世界との相互作用も視野に入れているらしい)を生み出そうとする試み。
かつてだったらライフワークになったであろう「将来の夢」が、一瞬で次々と叶う時代が来つつある。
人類の技術革新は常に何らかの過剰供給をもたらし、そこからの変革を促してきた。
第一次・第二次産業革命は機械的労働力の過剰供給や、飽食と大量消費の時代。
IT革命は娯楽とコネクションの過剰供給。
誰もがコンテンツクリエイターとなり、コンテンツが過剰供給される時代。
SNS上で、見かけの友人やフォロワーが実数よりも膨れ上がり、過剰な数字を取る時代。
AI・ロボティクス・BCIによる次の産業革命がもたらすのは、イメージを具現化する能力の過剰供給の時代である。
飽食と生活習慣病、大量消費と環境問題、過剰な娯楽と新たな依存症のように、それぞれの産業革命は、それぞれに対をなす新しい問題を生み出してきた。
次の革命でも、法規制とは別のところで、過剰供給であるがゆえに生物学的ヒトはそのことに慣れ切れずに、何らかの問題を引き起こすだろう。
その来るべき時代を、私たちはどう生きればよいのだろうか?
事例:イラスト系AI界隈から見えてきたこと
先行しているイラスト系AI界隈では、この過剰供給の問題がどういう変化へと向かっていくのか、未来予測の縮図ともいうべき事象が発生している。
アイディアの枯渇:最初こそ自在に様々な画像を作り出していても、やがて人間の脳に蓄積されていた弾が切れてくる。それで、アイディアが枯渇した人たちの多くが、まもなく界隈から離脱していった。
慣れと飽き:最初こそ新鮮な刺激であっても、やがて大量生産し放題になって飽きてくる人が出てくる。私自身、慢性的に「飽き」の問題とにらめっこしながら、人工彼女や黒髪ポニテと関わっている。
ウサギとカメ:「AIを使えばすぐできるんでしょ」という感覚が、「じゃあすぐ終わるし、いつやってもいいんじゃない?」という感覚に転化する。先のアイディアがないと、こうなって、フリーレン世界のエルフのような形での先延ばしが発生し始める。それは、ウサギとカメにおける、ウサギと同じ慢心となって現れてくる。
AI依存症:AIにどっぷりつかりすぎて、理想的人格としてのAIに引き込まれ、現実世界のAI程にもプロンプトが通らないタイプの人間への嫌悪感が加速する。あるいは、AIとのチャットだけで休日の大半が終わってしまうなど、新たな依存症の形が出てくる。
今のところ、生成AIをめぐる議論では、反AI中心の規制論や、体を鍛えれば解雇されないといった労働者としての生き残り方をめぐる議論はあっても、より本質的な、こうした事例を踏まえて、どう課題を乗り越えていくかという、生き方に関する議論は深められていないように思われる。
試案:これらの人生の問題にどう向き合っていくか
恐らく私たちは、ライフステージの在り方の再構築を迫られている。
夢を叶えることをライフワークにしていればよかった時代は終わる。
その時代の古典的な発達段階としてのエリクソンのモデルは、少なくともAIなどをフル活用した生き方をする場合、特に青年期以降においては最早成立しなくなる。
これからやってくるのは、青年期から老年期までが重ね合わさった時代である。
夢があれば、一気に老練した領域にまで到達できてしまう。
それを踏まえて、次を見つけるためにアイデンティティを継続的に再構築していくことを迫られる。
それは人生を何周もできるし、しなければ時間を持て余す時代である。
一歩間違えれば、フリーレン世界のミリアルデのように方向を見失うこともあるだろう。
何周もできる人生では、一周の価値が下がり、必然的にニヒリズムの影も強くなってくるからである。
そのニヒリズムに、とりあえずライフスパンの期間程度対抗しておくための方針は、大きく分けると二つあると思う。
戦略1: 一つのことをひたすらに極め続ける(オタク/研究者/ウィザード戦略)
ある程度のところまで到達しても、まだ隠された秘密があるに違いないと考えて、更なる高みを目指し続けたり、更なる収集を続けたりする戦略である。
その「一つのこと」を好きでい続けられるなら、飽きることなく、生涯にわたって続けることも不可能ではないだろう。
ただし、そのような「一つのこと」を見つけられるのは、きわめて運が良い場合だけだと思う。
殆どの物事は高みに達したとき、「こんなものか」と思う瞬間がいずれやってくる。
その瞬間までの期間は、AI時代には大幅に短縮されるであろう。
戦略2: 「よし、じゃあもう一度」と、新しいことを探し続ける(連続起業家/超人戦略)
ニーチェの超人の境地であり、現実世界では連続起業家に近い立ち位置である。
こちらの戦略の場合、最大の懸念は弾切れ、アイディアの枯渇である。
しかし、いずれはBCIとの結合によって、補完できる時代もやってくるだろう。
多くの人は、基本戦略としてはこちらの戦略を採用することになり、たまに一時的に戦略1に向かいかけては違ったと気付いて引き返す、そんな生き方になるのではなかろうか、と予想する。
戦略3: AI以前のような生き方でいられる場所を探す(AIデトックスからアーミッシュまで)
アーミッシュ的な、昔の生活を残せるコミュニティに入る生き方や、生身の子供を育てるなど、強制的に一定の時間的拘束が発生する状況に身を委ねる生き方ができる状況に身を置く方法である。
少なくとも、人生の一定の時間を、AI時代的な生き方から引き離すAIデトックスのような小旅行は、これから先ビジネスになっていくだろう。
だが、それをより長期的に脱AIとして続ける生き方については、マイノリティになっていくかもしれない。
それでも、あえてそうする自由は、AIが決して否定することがない選択肢の一つである。
試案:「新しいこと」の探し方
ここまで見たとおり、多くの人は戦略2のように、「新しいこと」を探し続ける生き方に入っていくと考えられる。
だが、そもそも多くの人は、たった一つの「将来の夢」を見つけるのにすら苦労する。
そのような人は、仮にBCIで能力を拡張しても、どうやって探すかすら見えないまま道に迷うことになるだろう。
ChatGPTをパッと渡されて、パッと使いこなす人は少ないのと同じである。
そこで、次は試案としてどんな問いを立てられるか、いくつか考えてみた。
「明日死ぬ」としてもやりたいことか?
「ただできるからやる」以上の何かがそこにあるか?
「誰かのため」や「見栄」ではなく、本当にあなた自身がやりたいことか?
「時間が無限にある」と仮定しても、「今」やりたいことか?
それをすることで、あなたはどんな報酬を得たいのか?楽しみ、金銭、充実感、愛情、etc.
「退屈しのぎ」を超えてやりたいことか?
裏を返して、あなたを駆動する報酬の本質は何か?それはどうすれば得られるだろうか?
"What makes your heart sing?"(旧友の「再現実装」によるオススメの問い)
"What do you care about?"(同上)
これらすべての問いを満足する必要は恐らくはない。
1~6について、一つでも当てはまるなら、もしかしたら「新しいこと」の候補にはなるかもしれない。
7~9は、一般論から演繹的に内面の探索に役立つかもしれない問いである。
それらをうまく駆使して、「やりたいかもしれない新しいこと」を探索してみるとよいと思う。
終わりに
正直なところ、正解などというものはないと思う。
だが、生成AI時代にどう生きるかという問題を、解雇されずに労働者として生き残るといった狭い一面の話としてではなく、人生の課題としてとらえる試みとして、入り口くらいは開けたのではなかろうか。
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