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私が「自由からの逃走」を読む理由

 皆さん、こんばんは。
 地方の会計屋です。
 2025年初の記事が相も変わらず専門外であることを、ご容赦ください。

 この記事を書いている時点(1月17日)からあと3日で、ドナルド・トランプが再び米国大統領に就任する予定です。
 また、ここで詳細や是非は割愛しますが、昨今の自治体選挙やそれを巡る騒動を見るにつれて、今までの常識や理性の枠で捉えるのが限界を迎えつつあることを痛感します。


エーリッヒ・フロムとは

 なぜ、人はいわゆるトリックスター的な候補者やアジテーターに翻弄されるのでしょうか。

 なぜ、人権や民主主義といった原理原則がスポイルされ、混乱が起きるのでしょうか。

 長い歴史を経て、人類は科学的・合理的マインドをによって中世的な因習や迷妄や束縛から人間の魂を解放し、啓蒙活動や市民革命を経て尊厳と民主の精神を勝ち取ってきたにも関わらず、なぜその精神に逆行するような現象が起こるのでしょうか。

 かつてナチス・ドイツが躍進し世界をファシズムが席捲した時代に生き、その謎に挑んだ人がいました。
 エーリッヒ・フロムは、その一人でした。

 フロムは1900年にドイツのフランクフルトに、ユダヤ教のラビの家に生まれました。
 ラビの道には進まず社会学や心理学を学び精神科医として活動していましたが、ユダヤ人であるがゆえにナチによる迫害を逃れ、のちに米国へと移り住みます。
 フロム自身のベースとなっているのはフロイトの精神分析学ではあり「新フロイト派」とカテゴライズされますが、フロイトだけでなくマルクスの社会学理論も積極的に取り込んで両者の融合を図っているのが大きな特徴でもあります。

 フロイトとマルクスの思想を融合させるとともに、両者の分析を社会全体のメカニズムに敷衍してナチズムの勃興のプロセスを分析したのが、「自由からの逃走」でした。
 本書が初めて発表されたのは1941年で、その後1950年に至るまで数回にわたって加筆修正されています。

人が自由を捨てファシズムに走るメカニズム

 ジグムント・フロイトが切り拓いた人間の精神構造を分析する手法は、それまで理解不可能とされていた人間の行動心理の原理を詳らかにすることを可能にならしめました。

 フロムはフロイトのメソッドを、批判を交えながらもより社会のマクロレベルで展開し、なぜナチが躍進したのか、ナチを受け入れる土壌は一体何だったのかを模索します。もともと人間個人のミクロレベルでの理論であったフロイトの精神分析論を補ったのは、マクロ経済学を軸に据えて社会の歪みの本質を追及したマルクスの理論でした。

 すなわち、人間が経済的・身分的に不安定な立場に追いやられ精神的な不安や不満を抱える原因をマルクスから見出すと同時に、不安や不満を持った人々が近代民主主義の原理に反した行動に移るプロセスをフロイトによって説明したのが、本書なのです。

 15世紀に興った宗教改革から19世紀の市民革命に至るまでのヨーロッパの歴史は、人々が王侯や教会と言った既存の権威から「自由」を勝ち取ったプロセスでもありました。しかし「自由」となったがゆえに人はさらなる不安や恐怖に晒されることを余儀なくされ、その不安や恐怖から逃れるために新たな権威を自ら受け入れ、せっかく勝ち取ったはずの自由を放棄してしまう、あるいは本人の自覚はないが結果的に不自由な状態に陥ってしまうというジレンマを抱えていたのです。
 また、その不安や恐怖の根源には自己肯定感の欠如やルサンチマンなどがありますが、そもそも中世末期において資本主義経済が進んだ結果貧富の差が拡大して中産階級の地位が不安定になったことが、彼らのフラストレーションの根源でもあったことを指摘しています。

 弱い立場に置かれているがゆえに強大な権威に自己を投影し弱者を憎む心理的メカニズム(権威主義的パーソナリティ)も、本書における鍵の一つです。フロムはナチの時代との比較対象として宗教改革の時代を取り上げており、ルター自身が強烈な権威主義的パーソナリティの持ち主であったという点と、カルヴァンが説く神への絶対服従の思想にマゾヒズムや自己否定を見出しているのも本書の特徴です。

 もちろん、宗教改革それ自体は当時余りに権力が強大過ぎたがゆえに腐敗と堕落に浸っていたローマ教会に対する疑問と、印刷技術により聖書が市井に広く普及するようになり本来のキリスト教の教義との矛盾が指弾されるようになったこと、そして教会においても内部での改革がその後推し進められたことに鑑みて、世界史的に見て非常に意義の大きいものです。既存の権力を揺り動かしたという点から、18世紀以降の市民革命の布石であることも間違いありません。

 しかしながら、宗派ごとの性格や程度の違いこそあるものの、カトリックに比べ教条主義的な性格が強く、アダムとイブの原罪をことさら強調しがちなプロテスタントの教義は、精神という面に関してはカトリックよりも果たして自由と言えるのでしょうか。
 ローマ教会という既存の権威から自由となった代わりに、絶対的な存在である「神」に対しては、より強い束縛を自ら受け入れてしまってはいないでしょうか。

 自由を恐れ、弱者を憎み、権威に憧れる。
 その精神的なメカニズムとその温床となる社会構造は、マスメディアやSNSを通して世の中を見ることに慣れ親しんだ私たちにとって、既視感あふれるものかも知れません。しかしそれゆえ、その原理を80年以上前に明らかにした慧眼には、ただただ敬服するほかありません。

 私は1月20日以後も、先人の英知を糧にしながら、その先に訪れるであろう世界とその世界を、自由と尊厳をもって生きるためのヒントを模索し続けるでしょう。

過去キャス(TwitterのSpace)

宗教改革の時代の考察①

宗教改革の時代の考察②

近代人における自由の二面性

逃避のメカニズム①

逃避のメカニズム②

逃避のメカニズム③

ナチズムの心理

自由とデモクラシー

(付録)性格と社会過程


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