「生きづらい」とは?
noteで心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく書きつくり、note民のさまざまな記事に触れていく中で、「生きづらい」ことに悩んでいる人があまりにも多いことに驚いた。
「生きづらい」の定義
そもそも、「生きづらい」ってどういうことなんだろうか?まずはChatGPT先生に聞いてみよう。
「生きづらい」という言葉は、人生や日常生活の中で、心の中に大きなストレスや不安を感じること、または自分の思い通りに物事が進まない、社会や環境に適応するのが難しいと感じる状態を表現しています。
「生きづらい」と感じやすい人には、感受性が高かったり、自己肯定感が低かったり、過去の経験に影響を受けやすかったり、他者と比較しがちだったりといった共通の特徴があります。これらの傾向が原因で、精神的なストレスや不安を強く感じることが多く、日常的に「生きづらい」と感じることがあります。
HSP(Highly Sensitive Person)、つまり高感受性の人々は、感情的、感覚的、そして社会的な刺激に非常に敏感であるため、「生きづらさ」を感じやすい傾向があります。
HSP⇔LSP
ふむふむ、なるほど。こうやって見ると、筆者は感受性が低い、自己肯定感が高い、都合の悪いことはすぐ忘れる、いつも自分軸で生きているから、いわゆる「HSP」とは真逆の性格だ。Highの逆はLowだから「LSP」とでも言おうか。
これはnoteであれやこれやと駄文を書き散らかし、自分の内面と向き合っていくうちに自覚したものだ。思えば、会社の適性検査でも協調性、好感表現力、対人調和力なる指標が絶望的に低く、逆にストレス耐性はどの項目も標準以上だった。
実際、生活に支障を及ぼすようなストレスや不安は感じていないし、思いどおりに物事が進まないのは当たり前だと思っているし、社会や環境へ適応しようがしまいが、しっかり食えていれば大丈夫という考えである。
LSPは生きやすい?
じゃあそれは果たして「生きやすい」のだろうか?人生イージーモードなのだろうか?いやいや、そんなこたぁない。たぶん。
相手の心情を慮ることができないために信頼関係を築きづらい、周囲への配慮に欠けることで意図せず誤解や対立を招く、ストレス耐性の高さゆえ自身の不調にすら気づきにくいなど、LSP由来の問題はいくつもある。
筆者はそれを絶え間ない観考推洞(観察・考察・推察・洞察)によって適切度の高い(と思われる)ふるまいを選択し、回避してきた。しかし、これは根本的な解決策ではない。人の気持ちがわからないから、そうせざるを得なかっただけだ。
生きづらさのプロセス
思うに、両者とも外的刺激の受けとりかたや対処のしかたが違うだけで、「生きづらさ」を生み出すプロセスは変わりないのではなかろうか。ただ、LSPは生きづらい状況にすら鈍感であるから、図太く生きているように見られがちである。
筆者はストレスに強いタイプだが、ルーチンワーク、ブルシットジョブの耐性が皆無で、もしその類の仕事に長期間従事しようものなら、頭がおかしくなって爆発する気がしている。きっと早々に逃亡するだろう。
つまり、刺激に対する耐性の強度はHSP/LSP(またはそれ以外)それぞれに特性があり、あとは個々がどう処理するか、どう対策するかの話ではないかということだ。その点については、HSPだLSPだとラベリングする必要すらないと感じる。
汝自身を知れ
とは言え、人間が社会的動物である以上、他人の感情や周囲の雰囲気への共感力が高いHSPが人間関係に疲れやすく、そうでない人たちよりもケアが必要なことは間違いないだろう。
鈍感で粗野な筆者が家庭においても職場においても、敏感で繊細な人たちに救われ、助けられ、生かされているのは確かな事実である。彼らは本当に優しく、思慮深く、いつでもかゆいところに手が届くマンである。ありがとう、いい薬です。©太田胃散
しかし逆もまた真なり、LSPだって何かしらの役には立っているはずだ。ほんまに?知らんけど。お気楽そうな人も深刻そうな人も、みんなそれぞれいろいろある。自分を見つめ、今あるものに感謝し、やれることを精一杯やっていくしかない。隣の芝生は青く見えて、実は赤いこともあるのだ。