読書感想文『人は話し方が9割』
きっかけ
とある人事研修のときに、職場の周りの人からのコメントを頂くところで、”話術を磨いてはどうか” という冗談交じりのグサッとくるものがあり、この手の本を手にすることにした。
本来はこういった本はあまり好きではない、正直。
話し方が9割、という論がかなり極端なのでは?という印象を抱いてしまって、その内容に関する自分の信憑性が下がり、読んだとしてもサラサラと流れてしまう、ということをイメージさせるからである。
しかし、自分が意外と読まなさそうなものを読むことで、学びがあることに気づき、そういった体験にハマっている最中なので、今回著を読むことにしたのである。
気づき
具体的な話し方、言葉の選び方という意味では、いくつか参考になったものもある。
それ自体はハウトゥ的に使えるので良いとして、じゃあこういう言葉を使う人達は確かに自分は好きだと思えるけど、なぜなのだろう、ということを考察してみようと思う。
・褒める:
やっぱり〇〇さん、さすが!
→ 普段からあなたのことを考えていた。
・正論を伝える:
同じ経験があるよ、ある先輩が言ってくれたんだけどさ
→ 否定しにくいことは間接的に伝える。
・アドバイスを伝える:
あくまで私の一意見だけど、こんな考えもあるんだと思って聞いて、一緒に考えよう
→ 相手が自己決定する余地を与える。
・頑張って欲しい:
〇〇さんが頑張っていたんだよね
→ 他の人が頑張っていたことを伝える。
・叱る:
君ともあろう人が・・・。がんばっていたよね。君ならやりきるできる力がある。
→ 認め、期待を示す。
これらのコミュニケーションを抽象化して捉えると、”相手への尊敬を表現すること” になるのではないか。
例えば、やっぱり〇〇さん、というコメントの裏には、普段からあなたのことを考えていた、つまり一目置く存在なのだ、ということを示している。
尊敬の表現が人に好かれる要素なのであれば、人は誰しも尊敬されたいと思っている、と言っていいだろう。
尊敬されたい、だけどそう簡単に尊敬される場面というのは訪れない。
だからこそ、尊敬を表現する言葉にはニーズがあり、それに人は好意を抱いたり、行動に移してしまう。
では、相手への尊敬を表現するためには、相手を実際に尊敬している必要があるのだろうか?
その必要がない場合を考えてみる。
まず、尊敬の定義とはなにか
その人の人格をとうといものと認めてうやまうこと。
では、とうとい、とはなんだろう。
1 崇高で近寄りがたい。神聖である。また、高貴である。たっとい。「—・い神仏」
「神 (かむ) さびて高く—・き駿河なる富士の高嶺を」〈万・三一七〉
2 きわめて価値が高い。非常に貴重である。たっとい。「—・い命」「—・い犠牲を払う」
3 高徳である。ありがたい。
身近な人物に使うならば、価値が高い・ありがたい、というところがしっくりくるだろうか。
では、相手を尊敬していない場合のことを考えると、相手のことを価値が高いとは思っていないし、ありがたくもない、と感じている場合である。
こういった場合でも相手に、尊敬を表現する言葉をかけられるだろうか。
一時的には可能だとは思うが、自分を偽りながらコミュニケーションを続けることは、それ以上の目的意識が強くなければ持続可能ではないのではないか。(これは割と私見を含む。)
そう考えると、相手のことを本当に尊敬している状態になった方が、持続可能に良好なコミュニケーションを取れるようになるのでは、と考えられる。
そのためには、尊敬のハードルを下げる、という手段が取り得るのではないか。
自分の価値判断のハードルを下げ、相手の良いところを見つける。
相手の存在を当たり前だと思わずに、有り難いポイントを見つける。
あくまでもこれをすべての人間に対してする必要はなく、可能な人間に絞ればいいと思う。少なくとも自分に対しての非尊敬がある人を除けばいいのでは、と思う。
やること
結論、相手とのコミュニケーションを円滑にするには、相手の良いところを普段から見つけることが重要だということが分かった。
リストにしてもいいし、たまにメモする程度でもそういった習慣が身につく可能性があるので、そういったトライをしてみようと思う。