オードレイ・ディヴァン「あのこと」
何かが落ちる痛烈なる音。
はさみが切り裂く鋭利な音。
激烈なる瞬間。
二つの音が命を背負う選択のあまりの重さを響き渡らせ身動きをさせない衝撃を与える。
なぜ人の命を扱うことがくじ引きのような仕組みに委ねられているのか。
なぜ女性として生きることがこんなにも難しいのか。
なぜセックス、妊娠、そして堕胎、それらがタブーとならざるをえないのか。
大学生・アンヌを通したひとつの事件(体験)は、それらまるで触れることさえしてはいけないような「あのこと」への怒りに近い疑問と、悲しみに近い業を覚えさせる。
「あのこと」とはすなわち意味深なタイトルである。明示されないことに明示できない意味が芽生える。言葉にできない、話題にできないことの隠微と不条理。
それは例えばこの物語の始まり、なかなかこない「生理」のこともそうだ。あるいは胸が豊かに見えるようにブラジャーに「細工」をすること、そして友人が打ち明ける一夏の「情事」、それらもまた隠された「あのこと」なのかもしれない。
女たちに共有され、しかし同時に後ろ指を指されながら、女たちの間で処理される「あのこと」。それらを垣間見るとき我々はまたそんな女たちの「秘密」とそれを背負って生きる女性たちの「痛み」を味わうことになる。
ロラン・タニーによるスタンダードサイズの圧迫的キャメラ。
予期せぬ妊娠に焦燥し堕胎に急ぐアンヌを演じるアナマリア・ヴァルトロメイの演技を越える演技。
痛みだ。あまりの痛み。人生の選択肢が、いや人生そのものが奪われようとすることの痛みがそこにある。
戦争も闘争も関係ないフランスのある街で平和裏に生きていたはずの女性にもたらされる自らを見失うほどの「痛み」。孤独を補う代償としてはあまりに大きなその「痛み」を映像として誰もに想起できるイメージに残したことにこの映画の多大な献身がある。
人生はいつだって選択の連続かもしれない。彼女もまた親になることではなく夢のため学び続ける選択をした。しかしそこには本質的に選択などできないのだということの証左が、その絶望が、アナマリア・ヴァルトロメイの蒼白な横顔として刻印されている。
アンヌの事件を体験したくないのならなおさら観るべき一作であるし、すべての女性たちに起こりうる「あのこと」を体験することが不可能であるならなおのこと、いつの時代であろうと観るべき映画である。