中島貞夫「鉄砲玉の美学」
意気がって眉間にシワを寄せてばかりの渡瀬恒彦が、本当に時おり見せる弾けたような無邪気な笑顔が、強がらなければ生きていけない若者の青春の悲哀を一身に背負う。
そしてだからこそ、何も持たぬものである若者が肩肘張らねば生きていけない、そんな生き馬の目を抜くような社会の構造的矛盾さえをもスクリーンに露出する。
東映の職人監督である中島貞夫がATGで自由に作ったことによってそれまで娯楽作のなかにエッセンスとして生きていた暴発的青春を送る(送ってしまう、送らざるをえない)持たざるものたちへの創作的擁護、そんな若者たちを生まざるをえない社会矛盾への鋭い批評眼というものが如何なく発揮されて生まれた、中島貞夫のフィルモグラフィーのなかでも特に作家性の色濃い異色作となっているのだろう。
中島貞夫がトークなどのなかでも強く語るように、その底辺からの鋭い批評眼とそこから世を見るものたちの姿は、紛れもなく渡瀬恒彦の演技的、存在的純粋さによって混じりっ気のない、本質的な矛盾を抱えながらそれ自体に夢を持たせる社会に飼い慣らされてしまった無垢の魂の存在性によってこそ担保されるものであり、ある意味哀しいまでの若者の愚かさはそれが愛すべきものであればあるほどその命が何の意味もなく失われることに痛切さを覚えずにはいられず、またそうならざるをえなかった状況を意図せずとも意識しようとも作り上げたもっと大きな意志、社会の脈動めいたものへの、ひたすらに静かな憤りに同調し共感せざるをえない何かを生む。
そこには「高度経済成長」の夢のあと、というコンテクストが如実に横たわり、冒頭タイトルバックに頭脳警察と典型的消費社会の気持ち悪さの表象はすなわちラストの必死に与えられたニンジンを食み続ける売り物として飼われていたウサギたちの姿と重なる。そんなウサギたちを持ち上げて渡瀬恒彦は語っていた、その存在と価値について、そして返されていたヒモをしていたトルコ嬢に、じゃああんたにはどんな価値があるの、と。野上龍雄の科白は、そんな些細なことから端を発する痴話喧嘩のなかに、おそらくこの作品の本質に触れる問いを投げ掛ける。
ヤクザの鉄砲玉となって、自分に価値があるか価値がないか、いや価値があると思い込もうと必死に意気がり続ける若き渡瀬の姿は痛々しいまでにどこか若さのあがき、社会と人生の真を言い当ててくるように滑稽でさえあり、そして「純粋」なのだ。何に対してか。それはこの、利用し利用され、殺らねば殺られるような、常に誰かより上に立ち価値と存在を証明し続けなければ生きていけないかのような、資本主義的競争社会の仕組みに対してである。さながら飼い慣らされたペットのように。価値がなくなれば簡単に捨てられてしまう消耗品のように。
中島貞夫に特にこれといった映画的スタイルはない。しかしだからこそ、まだスタジオシステムとスターシステムが生きている時代に映画人として育った監督の技量は、画であるよりもまずいかにワンカットにその人間を捉えるか、モーションのなかに生かし、存在させるかという、ある意味モーションピクチャーとして至極当たり前のことに注力される。
そして渡瀬恒彦のいかり肩や気取って見せる渋面、まれに見せる破顔と、そんななかにキャラクターではない、設定ではない、役者の身体から滲む愛すべき人間味を拾うのだ。
宮崎入りした渡瀬がホテルの鏡の前で格好つけて名乗りの練習を何度もするシーンなど、はじめ見ているときは微笑ましくバカっぽいが愛らしい健気さを思うが、見終わってしまったあと思い返せばひどく物悲しく、どこか侘しいまでに憐れみを誘う。
それはたとえば、鏡に向かって科白の練習をする映画としておそらくもっとも有名な「タクシー・ドライバー」を引き合いに出せば、中島貞夫にはあのような被写体をどこか突き放したカメラの冷静さよりむしろ、被写体と呼吸を共にしようとする一体感がある。
しかしだからこそ彼が、いや彼らが、目に見えぬもっと上の誰かの勝手な思惑のなかに踊らされて有り余るパワーを無為に暴発させざるをえない姿の痛ましさはドキュメンタリータッチによってより強く印象に残る。
やはり川谷拓三とのシーンはどれも鮮烈だ。夜の繁華街での追いかけっこから、昼日中の街中での殺り合いと、挙動も不審で言動もあやふやな拓ボンの演技はまるで渡瀬と対になるように、どこか動物的な魅力をもって確かにヤクザ稼業の下っぱ、その純粋さを引き受ける。
それはとにかく、何かに必死な姿なのだ。決して報われない何かに。ある枠組みのなかで、その枠組みこそが歪であるのに、真っ直ぐにそれを信じ込み、ひたすらに打ち込んでしまう、その純粋さの痛みが間違いなく映画を普遍的な青春悲劇にする。
その意味で「鉄砲玉の美学」は、まるで中島貞夫によるワイダ「灰とダイヤモンド」か、新藤兼人「裸の十九才」かという高い社会批評性と深い人間考察を、より強いまなざしの愛をもって描き出す大変な力作となっている。ラストの疾走は、それこそ「灰とダイヤモンド」かというものがよぎるが、それはこの社会の矛盾における必然的なまでの悲劇の結果であり、まさしく自らが全身を賭して望んできたはずの何かがすべて崩れ去ってしまったあとの、そのものからの遅すぎた逃避なのだ。
イーストウッド「パーフェクトワールド」がそうであるように、神秘的な「目的地」と、たとえそこが信じた当人さえ裏切る矛盾に満ちたものだったとしても、社会に居場所を失った孤独な魂という構図は許しがたい現実を前にした永遠のロマンだ。
暗黒宇宙のごとく暗さでヌッと迫る小池朝雄の計略の前に(というのは後からわかることだが)簡単に切って捨てられる拓ボンの姿に止めをさせなかった渡瀬の苦渋の形相と澄んだ瞳や、彼の知らぬところで会話だけが交わされる策謀、そして本当に誰かにいて欲しいときは誰も連絡に応えない女たち、唯一現れたのは自分のことを見透かした昔の女だけ。
渡瀬がままならぬ現実に揉まれれば揉まれるほど、彼方の地としての神話の世界、高千穂の山はリアリスティックな造形のなかで彼方に佇む。それがまた画の心情的距離と重なるだろう。高千穂を目指した渡瀬の最後。ゆっくり止まるバスをグーっと引いていってシネスコの大スクリーンにポツンとなる姿には思わず涙がこぼれる。
逃げて逃げても逃れえぬ現実が確かにそこに横たわれば、遠い高千穂の山の美しさはギュッとワンカットに凝縮される。そのコントラストに泣かずにはいられない。高千穂の山のショットの単純な美しさは、圧倒的な現実のなかに揉まれて失われた渡瀬恒彦が表現した純粋な魂と一致して、届かなかった永劫の距離感をなめるのである。
その捉え方はとことん持たざるものたちに優しく、それゆえに残酷な現実を当然のように差し出し過酷だ。無邪気で純粋で、そんな肌触りを表せる渡瀬恒彦と、優しく温かく、だからこそ不純な現実を射抜けるまなざしを持つ中島貞夫。稀有な二人のパートナーシップだったからこそ生まれた、彼らにしか撮れなかった破滅的(それは彼にとって?それともこの社会において?)青春映画である。
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