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最後の手紙かもしれない

先日、とある出版社の編集者に手紙を書いた。

その出版社は、マイナーだけれど、翻訳書や人文学系の素晴らしい本をたくさん出している。憧れの方も本を出されている。
昨年末に電話をかけて、色々と事情を説明したら、郵送で送ってもらえれば見ますよ、文字化けとかしたら怖いので、と言ってくださった。その気遣いが、それまでに経験したことのない温かさだった。

小さな出版社だから、最初は印税が払えないかもしれない、ともおっしゃっていた。
そんなことは問題じゃない。本来は良くないのだろうけれど、そもそも採算の取れない事業をやろうとしているのだし、何なら私は5年もタダ働きをしている(誰にも頼まれていない翻訳をしているのだから当然だ)
今さらそんなことは問題ではない。

家族に言わせれば、その労力と時間を普通の仕事に割いていれば、めちゃくちゃ儲かってるよと。
本当にその通りだと思う。私はこの世の原理にうまく適応できないんだろうか。
どうしてこんな生き方しかできないかな。好きでもあるし、困る部分でもある。

でも、こうして翻訳を続けてきたおかげで、素晴らしい出会いやご縁にたくさん恵まれた。
お金では買えない素敵なことが、たくさんあったのだ。
そして、言葉を紡ぐことが、昔よりは少し上手になった。

少なくともThe Gift of Rainについては、作品の呼吸を見出したような、そんな思いでいる。半ば自分と一体化してくれている。
2018年6月の日記に、こんなことを書いていた。

「……怖さと焦りで気がおかしくなりそうです。今の私には、自分の内に刻まれる真実を言葉に表す力量がありません。待ってくれるのなら、一生かかってもきちんと訳したい」

あの頃の夢は、半分叶っているらしいのだ。

でも、
それと同時に、自分の呼吸が切れかけているのもわかっていた。
情熱だけで進むことのできた五年間、自分の思いだけが頼りだった。やる気は贅沢品(何かを確実に続けるには、仕組みを作ることが大事)という言葉を習ったけれど、それが必要なかった。今までは。

でもどんな情熱も思いも、永遠に同じ強度で続くはずがない。
誰かにわかってもらえないと、共感して、共有してもらえないと、火を焚き直してもらわないと、違う景色が見えないと、私はもう燃料を失ってしまう。

それがだんだんと身にしみてわかってきた今、
手元には、昔よりは100倍も上達した訳文がある。

持ち込み用の資料も、以前とは比べものにならないほど洗練された。10ページ足らずの資料を、指導を受けたり学んだりしながら四年以上もアップデートし続けたのだから、ある意味当然だ。
どんなに思っても追いつかなかった技が、得られなかったら私はこのまま死ぬんじゃないかとさえ思っていたものが、少しずつ追いついてきてくれたこの頃、
私はもう、自分一人ではこれ以上歩けなくなっている。


色々な事情があって、その出版社に資料を送るまでに、半年の時間を費やしてしまった。
結局半年後、もう一度電話をし直すことになった。
ここならとにかく話は聞いてくれる、という安心感を抱いていた出版社だ。

ところが、同じ編集者の方とお話をしたのだけれど、その声は前とは違って親切ではなかった。タイミングが悪かったのか、時間を空けてしまったせいか、気のせいか、それはよくわからない。

以前は色々と説明していた原作者とのつながりや、経歴や、そんなことをうまく説明しきれなかったせいかもしれない(向こうはきっと、半年前の電話のことなんてほとんど覚えていないだろうから)

とにかく郵送で資料を送ってもいいということにはなったけれど、何か締め出された思いがした。

別にこれが初めてではない。出版社への持ち込みというのは門前払いが当たり前で、これまで友人のご縁や、直の電話や、色々な方法で運良く持ち込みが叶ったけれど、送っても送らなくても向こうは気にもしないし、結局断られてきたし、親切な人もいれば、冷たい人もいた。
企画が通らないのも普通のことだ。作品の良し悪しではなく、出版社は商売をしているのだから。
プロの翻訳者だって、持ち込み企画は10に一つ通れば良い方だという。

だから今更ショックを受けることでもないのだけれど、その電話を切ったあと、涙が止まらなくなった。

あれはなんの涙だったのか。
多分、もう自分は頑張り尽くして、誰かに助けてもらわないと、もう先へは進めないとわかっていたから。自分はもうこれ以上頑張れない、だからもう次はないかもしれないと、わかっていたからだ。
次を作るのは自分自身だ。そうやってずっと進んで来られた。だから何度断られようが、理解されなかろうが立ち上がれた。
その自分がいま、足を止めようとしている。
こんなに恐ろしいことってあるだろうか?

なのに、そんな状況なのに、しかるべき場所にいる人に、気持ちひとつ伝わらない。
電話一本で伝わるはずもないけれど、ほかに方法がない。

SOAS時代の親友に泣き言を言いつつ励ましてもらって、きちんと資料を整えた。そして、資料に添える手紙を書いた。色々な経緯、自分のこと、長くなりすぎず、でもきちんと書かないといけない。

以前の私が抱えていた重たすぎる想いをそのまま叩きつけた文章よりも、はるかに見栄えのいい手紙になった。
友人には、人柄と熱意がすごく伝わると言って褒められた。
本当にそうなのかもしれない。
でも、書きながら思った。これが最後の手紙かもしれない。私はもう、何も書けないかもしれない。

心が折れるということを、今までの人生であまり経験したことがない。
絶望したことも、悲しすぎて涙が止まらないことも、人間関係が辛かったことも、人並みに色々とありはしたけれど、でも、心が折れることはなかった。どこかに活路を見出して、どうにかしようと動きつづける自分。

ところがいま、私は翻訳に関して心が折れかけているのだ、信じがたいことに。
もうやらなくていいかもしれない、というあっさりとした思いが心にある。恐ろしい思いであるはずなのに、感情が湧かない。
心が折れるという状態はきっと、struggleしている間よりもはるかに穏やかなものなのだ。弾力のなくなったゴムと一緒だ。

28〜33歳という大事な5年間を費やして、私はいったい何を学んだのだろう。普通のキャリアから逸脱した自分とまわりを比べて、ふと恐ろしくなる。
自分にとって大切な学びが、未来にいっさい繋がらないとしたら?
商社を辞めて本当によかったのかと、これまで考えもしなかった疑問が頭に浮かんだ。
価値観がめちゃくちゃになっている。

強すぎる流れに出会って、ほかに選択肢は一切なかったから、後悔はまったくないし、しようもない。知らなかった感情にたくさん出会って幸せだった。だからこそ、こんな人生しか生きられない自分が怖い。

去年の夏、私はインスタかどこかに、もうすぐ坂本龍馬が死んだ歳だ、でもまだまだ死ぬわけにはいかない、と冗談で書いていた(龍馬とは誕生日が一日違いだ)。
でも今は「まだまだ死ぬわけにはいかない」なんて全然思えない。(死のうなどとは全く思っていない。念のため)

たぶん人生で一番弱りきっている現在を、ありのままに書いておくことしか、今の私にはできないから、こうして書いておく。

帰っておいで、と心の中では唱えている。まだ信じる気持ちが存在しているし、どうにかしようと希望を探している。
でも確実に何かの段階が終わりを告げて、この先の自分の人生がどうなるのかさっぱりわからない。
それだって、結構楽しいことだとは思うのだけれど。
神様、私に力を下さい。

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