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文芸翻訳に出会うまで①

自分が翻訳者を目指すとは、大学生の時は思いもよらなかった。

そもそも私は理系だった。自分の将来をきちんと考えるという発想が欠落していた私は、子供の頃から明らかに算数が苦手で国語が得意だったにもかかわらず、理科の暗記が得意だったという理由だけでなんとなく理系を選び、大学では宇宙工学か建築をやろうと思っていた。

でもこの夢はあえなく打ち砕かれた。高校数学の時点でちんぷんかんぷんで、物理など最初から捨ててしまっていた私が、最低限の積み重ねでどうにか滑り込んだ大学の授業についていけるわけがなかったのだ。もともと勉強嫌いではなかったために、無理を悟るのも早かった。努力しても、分からないものは分からない。自分の頭は数学を理解するようにはできていない。そもそも、数学や物理を使いまくるそんな仕事を本当にやりたいのかもよくわからなかった。この考えのなさはあまりにひどいけれど、それは今だから言えることだ。

私は典型的な、学校と受験に適合してしまった子供だった。目的や夢がなくともコツコツ勉強できて、塾で友達と遊んだり競ったりするのが楽しくて、自分が本当にやりたいことが自分の道の先にないとわかっていても、何をどう考えていいかわからなかった。

宇宙が好きで、美しい建築を眺めているのが好きだった。私にとっては宇宙も建築もエンターテイメントの一部だった。

エンターテイメント好き、人の心を動かすものの「作り手になりたい」という気持ちだけはっきりしていた私は、中高と演劇部での舞台作りに命がけだった。大学でもESSの英語劇サークルに入り浸っていた。でも、その情熱を自分の人生でどうしよう、という思いを追究することはできなかった。就活でどうにかなると本気で思っていた。自分の人生は自分で真剣に考えねばならない、という概念を子供時代に教わらないというのは本当に恐ろしい。

ただ一つ、ファッションデザインをしてみたいという願いがずっとあった。
というより、子供の頃から大好きな『星の王子さま』の本の世界観をアパレルブランドにしたい、という謎の夢をずっと抱いていた。でもこれも、少しだけトライしてあっさり諦めた、というか傍に置いた。一度見学に行った専門学校があまりにハイコストで、それを乗り越えるだけの覚悟も熱意もなかったのだ。当然、親も猛反対だった。

しかしこの学校の面接で、教官は私が語る夢のあまりの明確さと熱意に圧倒されたらしかった。これがいったいどういうことだったのかは、ロンドンに行ってから分かったのだけれど。

理系の皮をかぶった文系として無難に卒業し、まぐれで商社に就職した私は、そこでようやく現実を突きつけられた。目の前に一本道があり、それ以外に道がないのだ。自分のやりたいことを追求するすべが、いつの間にかなくなっていた。

子供の頃に敷かれたレールから上手く出られず、あさっての場所にある自分の思いとちゃんと向き合うことも、まともに考えることもできずにいつの間にか大人になった私は、商社という特殊な環境に放り込まれて絶望した。本当の意味で心の通じる人が、まわりにいない。でも日々はそれなりに楽しい。友達はできる。仕事に追われる。そして私は、その仕事をこなすための努力をしてしまう。このままでは自分はおかしくなる、とはっきりわかった。日々息のできない感覚に襲われて、メンタルケアの相談までしにいった記憶がある(全然役に立たなかった)

だから、逃げるように海外に出たのだ。そこでようやく私は、真面目な生徒の道を脱することができた。たぶん、鬱になるまで追い詰められたのが幸いしたのだと思う。会社をやめる、という段になって、周りにどれだけもったいないと言われようが、チームの皆が愛しかろうが、微塵も迷いがなかった。自分の欲しいものがそこにはないと、はっきりわかっていたからだと思う。

夫とともにロンドンに移り住んだ私は、一から「自分探し」を始めた。そんなことを始めたつもりはなかったけれど、ふり返れば、あれは紛れもなく自分探しの毎日だった。

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