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ピンチをアドリブで乗り越える技 89/100(スピーチ6 -The Empty Space)

自問自答を繰り返しながら、
アドリブと演技の関係を
追求していってみようと思い立ちました。
100回(?!)連載にて、お送りします。


先週は、これまでのまとめとして、ケーススタディー的に『スピーチ』に関してお話ししてきました。

今日は、さらに掘り下げて、「目線コントロール」について考えていきたいと思います。

以前、「目線」の話は書いてますが、それは表現する方の立場として、どこに目線を向けるかというお話しでした。

今回は、立場を反転させて、観客、聴衆の「目線」を、如何にして誘導していくかというお話しです。

能狂言は、余分なものを削ぎ落とした芸能です。

650年間の時をかけて、より鋭利?というか澄んだものへと研ぎ澄ませていった結果が、今日の能狂言です。

それは一見単調で、何も起きていない感じがして、堅苦しく見えますが、実は物語を語る上で邪魔になる余分なものを取り除いているだけです。

これは、能舞台に関しても言えることで、舞台セットなどは使わずに、必要最低限のパフォーマンス・スペースにまで昇華させていった、一種の究極の形が能舞台です。

余談になりますが、演劇界の巨匠ピーター・ブルックは、この舞台形式に多大な影響を受け、「The Empty Space」というスタイルを確立させました。

これは、演劇史に残る偉業で、今でもこのスタイルにインスパイアーされた公演が、世界各国で行われています。

そしてその源流は、あの能舞台にあるのです。

余談の余談ですが、イギリスの演劇学校では、まさにこの「The Empty Space」というエキササイズを行います。

参加者全員で、椅子の背を使って結界を作り、完璧な正方形の空間を作り上げます。

そうすると、この何もない空間が、観客と演者という関係性の中での、最小公倍数のパフォーミング・スペースになります。

最も研ぎ澄ました空間ですね。

この空間で、役者は何を感じ、身体はそこにどう反応するかを検証して、演者と観客の関係性を学びます。

また、その何もない空間の中で、役者が自分の身体だけを使い何をどう表現出来るかを、何時間もかけて探っていくエキササイズです。

本題に戻ります。

何もない空間では、役者は裸同然です。

その身体の一挙手一投足に、観客の目線はいきます。

些細な動きでも、それは何かしらの意味を持って観客には伝わってしまいます。というか、見る人は、些細な動きに何かしらの意味を、見つけようとしてしまうものです。

あなたの全ては見られてるんです。

ちょっと怖いですよね。。。

でも、人の前に立つ、というのはそういうことです。

意図せずにやってしまっている仕草や癖は、全て見透かされてしまっているわけです。

普段は、そういったものも含めて、一種の同情と許容を含んで、舞台上の人を見るわけなので、そこまで気にする必要はないのかもしれませんが、普段誰かのスピーチを見ていて、「ああ」って思うことありますよね?

そして、見る側の自分が「ああ」って思うんだから、自分が見られる側の立場になったら、やはり「ああ」って思われるんだろうな、と感じることが緊張や苦手意識につながっているんじゃないですか?

能狂言では、その余分な要素を全て取り除き、必要最小限の動きしかしないことを良しとします。つまり、見る人に見せる部分は全て意識的であり、そこには意図があり、意味があるんです。

イギリスの役者の考え方もそれに近いです。

「なんとなく」してしまっている表現をというものを極力なくし、確信犯的に、意図をもって表現をする。そんな感覚的ではなく、職人的な発想が、イギリスの役者にはあります。

だから、撮影などで同じシーンを何度も何度も、繰り返さなくてはいけない場合においても、確信犯的に再現することが可能になってます。

ピンチに陥った時、(久しぶりにこのテーマに直接的に言及してますね)あなたの焦りや、緊張、恐れなどはすべて見透かされてしまいます。

机があれば、演台があれば、その影にそれらを隠すことが出来ます。

でも、それらが一切ない時、昨今のスピーチで用いられるような「The Empty Space」に立たされている時、見る人の目線はどうやってコントロールできるのでしょうか?

明日へ続きます。

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