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素晴らしいモノを作り出す、素晴らしきくそな人々

今から22年前、ある児童文学が超人気作品として世界的な社会現象となった。

ハリー・ポッターだ。

当時小学生だった私は、そのベストセラーの人気ぶりを目にし
「すげぇ、私もベストセラー作家になりたい!」
というバカな考えに至る。

少しミーハーな母親が、ろくに使いもしないのに購入した初代imacを相棒に、小学生の私はローマ字入力を習得し、児童文学の執筆を始めた。



夢はでっかく「最年少ベストセラー作家」

でも私にはJ.K. ローリングのような才能は1mmもなく、1冊も書き終えることなく、短い作家人生を終えた。


その時だと思う。
「自分は ”何かを作る能力”がない」ということに気がついたのは。

今noteでこんなふうに”エセライター”として自己満足で”エッセイ風”なものを書いてみてはいる。

”何かを自分の言葉で書き、発信する”ということに対しては、あくまで趣味なりの、自分なりの努力は続けつつ、他の人からみて「お?」と思われるレベルにはなりたい。

でも、”作る”ことに対しては絶望的に無力だ。


平凡な大人


なんの才能にも恵まれず、平凡を絵にかいたような大人になった私は、就職活動で挫折。新卒で適当に入った建設会社ではお局からのパワハラのため、半年も絶たずに仕事を辞めた。

そこから、いろいろなことがあって、ひょんなことから大手のゲーム会社に常駐して働くことになる。
ゲームなんて私の中では”ゲームボーイカラー”の時代で止まっていたのに。

ゲーム業界は私にとってとても居心地のいい場所だった。
きちんと仕事をしていれば、服装も自由。
前職のときのような”社長室の掃除”みたいな、ヘンな雑務もしなくていい。

すっかりその環境が気に入った私は、次の職場もゲーム業界を選んだ。

ゲームを一切しない私でも、世界的に愛されるようなゲームを生み出し、新作がリリースされたときに歓喜に湧くファンの人たちの姿を見ると、0から素晴らしいモノを作り出すことを、死ぬ思いで、且つ楽しみながらやっている人たちの偉大さを感じた。

そして「素晴らしいモノを作る人たちの、少しでも役に立つような仕事をしたい」と思うようになった。


素晴らしいモノを作る人が、良い人だとは限らない

悲しいことに、誰かの心を動かすような、そんな感動を与える素晴らしいモノを作りだす人が、作品と同じように”素敵な人”だとは限らない。

J.K. ローリングだってそうだ。
ハリー、ロン、ハーマイオニーといった魅力的なキャラクター、そして素晴らしい魔法の世界を作り出した人であっても、トランスジェンダーに批判的な発言を繰り返し、物議を醸している。

世界中の熱狂的なファンが新作を心待ちにしているゲームを作っている人たちも同様。

時間を守らなかったり、横暴な態度だったり、パワハラしたり、部下を歯車の1つだとしか考えてなかったり….


「素敵なものを作る人 = 素敵な人」
が必ずしも成り立つわけじゃない。

でも、彼らの”ずば抜けた才能”は平凡な私とは違い、世の中から求められている。

彼らがくそだって、なんだって、「素敵なモノを作る人」というのは変わらない事実だから。

その事実に、だんだん苦しくなった。

平凡な私の仕事

長年いたゲーム業界は、もう私の居場所ではなくなって、今は広告業界で働いている。

広告業界には、ゲーム業界とはまた違う、才能にあふれた人たちがたくさんいる。

そして、私はまた、そんな人たちの”サポート”という役回りをしている。

面倒くさいクライアントとのやり取り、スケジュール調整、見積や請求書などの金勘定….そんな誰にでもできるようなことしかできないからだ。

「何か特別な才能があったらいいのに」と思いながら、私は今日も世知辛い世の中を、なんとか生き抜いていく。

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