"となりと、となり。"7(final)-となりのとなり。
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今回、東京から地元に帰ることを決めたのは、自分の覚悟が、形によっては通用するということがわかったからだ。
仕事に対するそれ、秋桜に対するそれ。未来に対するそれ。
それなら、もっと勝負をしてみようと思ったのがここ半年だ。その結果、馬鹿みたいに仕事を突っ込みもう一つの覚悟を試すために張り切ってみた。結果、大量の休みも資金もゲットした。
僕は、きっと今の幸せが穏やかに好きなのだ。
結果、休みをとって、今地元にいる。
そして、目の前で、別れを告げられることになった。
けれど、流石の僕もそう簡単には許してはやらない。
今の僕の胸に眠っている覚悟は伝えないと。
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圧倒的な圧力だった。
思って考えて、心の中で決めていた覚悟を初めて口にした途端にその自分の決意が、どれだけ自分にも太紀にも乱暴で残酷なものか、これ以上ないくらいに思い知らされた。
「……秋桜」
やめて。いまのあたしは。大好きなあなたにそんなに優しく名前を呼んでもらえる人間じゃないんだよ。ひどいことをしている。残酷な、発言。太紀が帰ってきてから、甘くてあったかくて優しい時間を過ごしてきたのに、帰京直前に、まるでぶち壊しのとんでもないカウンターを喰らわせている。なんだったのか、全部芝居かって罵られても仕方ない程の、ひどい行為。
大好きな太紀に、これからも大好きでいたいから、尊敬していたいから決めたこと。辛くないはずなんてないんだよ、って思うけど、そんなのは言い訳に過ぎない。もう私に嫌われてしまったと思っていてもしょうがない。
あなたの思い描く未来にあたしがいたとしても、それじゃ夢を叶えるのは難しい。
一念発起してすごい頑張って、やりたい仕事を掴むために東京に行った。
それなら、送り出すという形をとることも二年前に考えた。
けれど、ここまで甘えてしまった。
一緒に食事している時間。
どうでもいいことを話している時間。
あなたは好きだけどあたしは苦手なホラー映画を見ている時間。
手を繋いで夜な夜なコンビニに行く時間。
今みたいに海辺まで散歩する時間。
東京で出迎えてくれて、ちょっと非日常みたいな時間。
今朝みたいな、寝ぼけたあなたに甘えられる時間。
真面目な話をし合う時間。
少しだけど抱きしめられている時間。
羽みたいに柔らかくキスされている一瞬の時間。
好きあって、あなたの腕枕で眠れる時間。
全部が全部、宝物みたいにキラキラしてくる。
けれど今放った言葉はその光に照らされて、憧れるみたいにその光に手を伸ばすあたしの背後にできる影で、後悔の塊になる闇。怖くて逃げ出したくなる。でも放り出したくはない。
今更口走ったように感じてしまう、別れという、選択が連れてくる涙が、もう崩壊したダムみたいに止まることを許さない。
喉の奥が、まるで首を閉められているようにぎゅうっとしてきて、鼻の奥が痛い。頭がクラクラしてくる。両手も両足もとっくにガタガタ震えている。寒い。体もだけど、心が死んでしまったように強烈に熱を失ってくる。
「…あたしは」
震えていて何を言っているのかわからないだろう声。太紀の返事はない。耐えられなくて立ち上がり、数歩前に出る。太紀に背を向けたままだ。
「…あなたの、じゃまに、なりたくない」
返答までの、多分いい1秒くらいの間で、あたしの心は引き裂かれそうになる。
なんて、わがままな女。
「そんなわがままを言うなら、僕もわがまま言わせてもらっていいかな?」
あたしに触れもしないで、そんな柔和な声。
「……ごめん。もう決めたから……」
そう言って踏み出そうとするあたしの右手首を、掴まれた。
やめて。今のあたしにあなたの温度を与えないで。
凍え切って、海の底にいるような心を溶かされてしまったら、泣きついちゃうから。
「君の意思はわかった。けど、こっちの意思もわかって」
「………泣いてるから振り向きたくない」
意地。
「それでいいから」
許容。
「……何」
疑問。
「なんで泣いているの。自分で決めた別れを告げたら、すっきりしているんじゃないの」
疑惑。
「……そ、そうだよ?せいせい、してる、よ?だって……」
強行。
「好きじゃなくなった僕とやっと別れられるから?」
疑惑。
「……そ、そうだよ?も、もう、太紀のことなんて…」
ダメだった。
あたしが壊れた。
無神論者の私が神誓っていってもいい。
太紀のこと、嫌いになったなんて、そんなこと、冗談でも言えないのに、言わなきゃいけないのに、言えるわけがない。声帯が殺されたみたいに喉が締まる。
「…深呼吸しよう。落ち着いて」
相変わらず優しいけど、声が震えているのはわかる。そしてあたしは大人しくその通りにする。
「僕の気持ちも伝えていいかな?」
「…な、なに」
「…」
少し間があった。振り向けないから何をしているのかはわからなかったけれど。
「秋桜」
また、優しい。その次の優しさが、私の決意に対する最後の致命傷だった。
「これ」
と言って、掴んだ右手に何かを握らせてくる。
「 長月秋桜さん 藤太紀と 結婚してください 」
思わず振り向いて、靡いた髪が、涙に濡れた頬に張り付く。
「………は?」
あまりにも突発的な発言に、もう自分を忘れてしまう。
「…君が、僕の夢とか実現したいことに気を引いて、別れを告げてきた。
いい加減長い付き合い。だからわかるけどさ。
それでもさすがに震えた。
秋桜のいない未来なんて想像できないし。
秋桜と隣り合っていることも、僕の夢。
なら、僕の夢を叶えるためには、君がいないきゃダメなんだ。
君が悲しみを全身に背負ってでも叶えようしてくれた望み。
僕の夢は、君と僕じゃなきゃ叶わないんだよ」
何を言われているのか、さっぱりわからない。
「長月秋桜さん。僕の命の、半分になってください」
崩壊した。
世界が壊れた。
けれど、生まれ変わる感じがした。エンブリオ。
そしてその時に。
握らされたそれに気づく。
「……これ……」
「…ああ、それのためにここ半年仕事つめつめで頑張ったんだ。指輪、受け取って、はめさせてもらっていいかな?」
「……え」
大学の時散々散歩した浜辺で、たった二人しかいない。
そんな状況を照らす茜色の夕陽。なんて状況。
戸惑いながら、まだ信じられない掌の上のそれを見つめつつ、ゆっくり太紀の方に差し出すと、これまた優しく彼がそれを拾い上げる。
「……いい?」
「……」
あたしの涙腺はもう崩壊していてまともに見れないのだ。いいも悪いもなく、左手だけ差し出す。
「ありがとう」
「……」
ゆっくりと。
自分の体温で暖まった金属の感触が、心臓に一番近い指先から根元まで。
ゆっくりと、伝う。
「……これ」
「サファイア。君の誕生石。探すの結構大変だったよ」
はにかみながら言う。
「これのために?」
「そう。今回の帰省は決めてたから。今度こそちゃんと、秋桜と居たいって思って。よかったよ。尾道の浜で渡せて」
「え、でも、東京は」
「ああ、それね。実はキャリーに書類も入ってるから後で見せるけど、近いところの支社に転属決まったんだ。粘った甲斐あったよ本当」
「……うそ」
「本当」
膝が折れてしまう。
指輪をはめてくれた指が無様に砂塗れだ。
「秋桜、ただいま」
あたしの隣に、居てくれた。
あなたの隣に、あたしはちゃんと居れたんだ。
君のとなりと、あたしのとなり。
もうただただ、愛おしさしかなかった。
【イメージ写真提供】