カウンターの隣席 #4
店が燃えてわかったこと
『ピーエイジバー』(大阪・箕面)を開業して2,3年が経った頃(1993,4年)のことです。
朝5時頃、自宅の電話が鳴ったんです。受話器を取ると聞き慣れないおっさんの声で「カワムラはんでっか?」。
店は毎朝3時頃までの営業。その日は暇で、常連さんとトランプしたり酒を飲んだりして、確か朝の4時頃に閉めたはず。まだ酔いが覚め切っておらず、いたずらかと思い「おっさん誰や?」と返すと電話先の方はこう言いました。
「うん、僕はね箕面消防署のもんやねん。悪いな、お休みのところ。あのね、あなたの店から火が出たんよ」
なんじゃあ誰にイタ電してるかわかってんのか、おいこら。
「うんうん、落ち着いて。大丈夫やから。僕らはプロやからできる限り損傷を少なく始末しといた。あ、でも階下のカラオケ屋には水が漏れたかもしれん。ま、でも、そんなに酷くはないはず。あ、それとドアは壊すしかなかったから勘弁やで。一秒でも早く開けんと爆発する可能性があるから。大丈夫、大丈夫。今から店まで来れるかな?」
酔いは一気にさめ、僕は飛び起きて店へと戻りました。すると店の前の道には何台もの大きな消防車がいろんな方向に向いて停まっており、何人もの消防士が足早に行ったり来たり。その周りから、サンダルにジャージ姿の住人(店が入るのは5階建てのワンルームマンション)たちが心配そうに2階の僕の店を眺めていました。
人混みをかき分け黄色いテープをくぐると、どこからかすぐに一人の消防士が現れました。「あ、カワムラはん?よう来てくれた。一応確認してもらわんとあかんから今から一緒に店の中にきてくれるかな。大丈夫大丈夫」。
階段を上っていくと、水浸しとなったテラスに太いホースがくねくねと這っていました。ドアはそのまま顕在していますが、取っ手がなく、鍵のあった部分に30センチほどの穴が開いてます。
「な、うまいこと鍵のところだけ壊してるやろ?大丈夫大丈夫」。そう言って消防士は入口で立ち尽くす僕の肩をそっと手で支えました。
そして店内に入ると、そこは一面真っ黒でまるでお化け屋敷のよう。直後、床から焦げた匂いが鼻と目を突き刺します。天井からポタポタと水が滴り、金属製のスポットライトは渦を巻きながら床にまで垂れ落ち、カウンターに並んでいた大半の酒のボトルは割れているか歪んでいます。
他の食器も半分以上が割れ落ちていて、壁に貼ってあったレコード十数枚はすべてシャンプーハットのように波打ち、長さ8メートルのカウンターの隅っこ1メートルほどが特に焦げていて、まるで爆発でもあったかのようにしか思えませんでした。
消防士はすっかり血の気が引いてしまった僕の肩を支えたまま、ゆっくりとカウンターの中へ誘導していきます。一歩踏み出すたびに、グシャ、グシャと、食器、ボトル、小物などの破片がさらに細かく崩れる音が。
「ほら、ここらへん見て。ガス管のある向かいのところ。たぶんテレビ置いてたんかな。どうもこのあたりが出火元っぽいねん。ほら、焦げ跡あるやろ。これがその証。ゴミ箱でも置いてたの?」
そうです。ガス管の前にゴミ箱。その向かいの棚にテレビです。
「どうやらゴミ箱から火が出て、その熱で棚に置いてあったテレビが割れたか溶けるかして、そこから広がったんやろうな。うんうん。それにしてもカワムラはんはほんまにラッキーや」
消防士の慰め混じりの言葉が虚しく聞こえて、どんどん自分の心が遠ざかっていくようでした。
「カワムラはんっ、カワムラ君っ。よう聞いて。これほんまの話。僕らが言うのもなんやけど、実は火事って不思議なことが多いねん。どう考えても思いつかないような火の出方やったり、逆によく大災害にならずに済んだなと思うようなことがあったり。カワムラ君はほんまに守られてるよ。通報をくれたんはこのマンションの住人さんで、今朝、たまたま雷が鳴って目を覚まして、どこからか煙のにおいがしてきたからやっぱりこの辺に落雷したんやと思ってすぐ電話くれはった。こんな季節外れに雷があるなんて奇跡やで。それにガス管の前が出火元って、下手したらこのマンション全部いってもうてた。励まそうとかそんなんじゃなくて、ほんまに不幸中の幸いや。君はついてる。それだけは覚えといてや」
消防士は僕の肩をぎゅっと抑えながらそう声を放ちました。
この後の記憶はほとんど残っていません。覚えているのは、ぐしゃぐしゃになった瓦礫に滴る水の音と焦げた匂いだけです。
数日がたち、僕は何かにとりつかれたかのように毎日店へ出かけます。店には立ち入り禁止の黄色いテープが張られたまま。それを乗り越え、店内に入り、散乱したボトルやお皿、グラス、レコードなど使えるものとダメなものを仕分けていったり。
店内の壁、カウンター、フローリング、そしてテラスの手すりに乗ってマンションの2階から3階までの壁に生々しく残る艶のない黒煙の染みなどを磨き続けました。でも、どれだけ磨いても落ちないのです。奇麗になることのない店を毎日毎日磨き続けました。
そしてある時ふと思うのです。俺はいったい何をしてるんだ。いや、今まで何をしてきたんだ。もう復活は無理か。店は終わりか。情けなくて悲しくて涙が溢れてきました。
でも、そんな感情なのに、骨身からは、ほら稼がなきゃ、家賃を払わなきゃ、一人でも多く集客しなきゃ、一杯でも多く飲んでもらわなきゃ、と異常な焦燥感が溢れ出てくる。ほら、考えている暇なんてないぞ、と。
当時の僕は、このように心と身体がもうバラバラになっていました。完全に壊れていたのです。
そうなってしまった経緯はこんな風。店は14坪で家賃はなんと30万円+税でした。それなのに阪急電鉄支線の最終、箕面駅から徒歩約30分。国道が近いとはいえ何のシンボルもない交差点を曲がって100m先のマンション中二階。隣は一反ほどの田んぼという立地環境。
なぜこのような条件で店をやったのか。それは、ここが僕の夢実現の初めての場所となったからです。10代の頃からずっと独立開業を夢見てきました。金や社会的信頼のない環境で育った自分でも、技術を磨けば、ノウハウをしっかりと体得すれば、いつかは自分の店がもてるはず。そう信じて紆余曲折してきて、ついに20代半ばである不動産業者から声をかけられたのでした。
「こんないい場所いい店はないんだぞ。居抜きだから今すぐにでも営業を始められる。保証金は700万円。家賃は20万円。でも君は今まで頑張ってきたから俺がなんとか面倒を見てやる。保証金はいらない。君の夢の店をやればいい。その代わり、家賃は30万円とする。そして手数料は2か月分の60万円。これっぽっちで今日からでも営業できるんや。どうや、君にとってはいいことしかないんだぞ」
その不動産業者は以前からの知り合いでした。23,4歳の時にラウンジの委託運営業者として入っていた高級スポーツクラブの会員さんだったのです。そのラウンジは、栄養をコントロールした様々なオリジナルの飲み物や料理が売りでなかなか好評でした。
そういうバックボーンがあって、あぁ自分のことを本当に応援してくれる人がいたのだと、喜び一杯で店を始めたわけです。
でも、いざやってみると3日間お客はゼロ。当初は洋風居酒屋というか創作小料理屋でした。朝から一生懸命に仕込んだ料理を捨てることほどつらいものはない。でも30万円は待ってくれない。何とか手を打たなきゃ。
ということで思い切っててショットバーに方向転換することに。当時、それほど酒には詳しくなく、アル中みたいな先輩にいろいろ教わりながらの突貫修行。店の外装はそれまでの落ち着いたウッディなものから、トタン板にペイントを施してワイルドな感じにチェンジ。リニューアルに要したのは、一、二週間だったでしょうか。
再開して2日後、若い女の子が数人ご来店。近所に女子大の寮があってそこに住んでいるとかで、ならばと、やんちゃな後輩たちを連れだってその寮や大学などへナンパ半分でチラシ配りに励み、徐々に集客につなげていったのです。
しかし、それでも家賃30万円には及ばず、今度はイベントを乱発していきます。ライブ、得意のエスニックなつまみやカレーとライブのセット、DJを入れてクラブ気分、誰でも参加OKの隠し芸大会ピーエイジ劇場などなど。
そしてなんとか家賃を捻出できるようになったのはいいのですが、その分スタッフ3,4人が必要となり、結局僕の取り分はないに等しい。さらに騒音や路上駐車など近所に迷惑がかかり警察事も増える一方。挙句の果てには「この店でクスリの売買を行っているという通報があった」などとデマにも悩まされることになっていきます。
それでも悩んでいる暇はなく、一人でも多く、一杯でも多く、と毎日が必死。そんな日々を送るうち、知らぬ間に自分がアル中のようになっていて、過労から料理の仕込みが億劫になっていき、やがてはどんな強い酒を飲んでも酔わない体質となり、挙句の果てには怪しいクスリも服用しだします。酷い時は身体が凍えて意識が遠のいてしまい救急車のお世話になることも。
周囲に心配してくれる人もいましたが、もう殆どまともに聞くことができない状態で、自分でも長生きできないだろうなと思うようになっていました。
そんな時に火事が起こったのです。
すべてが終わった。でも家賃を稼がなきゃ。そんな鬱と焦りの狭間に苛まれる中、ある時思わぬ光が差し込みます。それは近所に住む常連客の女性。出会った時は短大生。その時は社会人2年生くらいだったでしょうか。
「店から火が出たって近所の噂で聞いてた。ケンちゃん(僕)どうしてるかなってすごく心配で。会社の帰りにバスから見えるんよピーエイジバーが。それで最近毎晩のように明かりがついてるから、あ、ケンちゃん頑張ってるやんと思って」
入口で涙ぐむ彼女の手には、洗剤と何枚かの雑巾、ゴム手袋、そして大きなおむすびが。
その後、今度は産廃屋の常連客がやってきます。「今日いいゴミがあったからあげる。これにビールでも冷やして飲みながら片付けしたらええわ」といって水をためるタイプの屋外用の冷蔵庫をくれました。彼は大阪市内在住。箕面まではゆうに30分はかかります。遠路をわざわざ軽トラに乗ってやってきてくれたのでした。
自分にとっては、集客と売上のノイローゼの元凶となっていた店でしたが、お客さんたちはこんなにも愛してくれていたのか、ということを思い知らされました。
家賃に追われているのは同じこと。でも、もうどうにでもなれ。それよりも自分が元気でいることをみんなに伝えたい。そうだ、この冷蔵庫を使って屋台をやろう。そう思って缶ビールやスルメ、ナッツなどを仕入れ、夜になるとテラスに電球を垂らしてビール屋台を始めたのでした。
当時は携帯電話やネットはありません。この灯りが知らせとなり、常連客がまたお客を連れてどんどん集まってきてくれたのです。
徐々に元気を取り戻していった僕はある時大家に電話を入れます。すると、いつのまにか例の不動産業者から新しく行政書士事務所の方に権利が移っていることがわかりました。なぜだろう。ま、もうどうでもいいや。
新しい大家と会い、家賃を待ってもらいたいと交渉をすると「待ってあげるよ。それよりも君は店舗保険にも入っていなかったようで大変。僕がなんとか修理費用を出してあげるから、新しい店のイメージを業者と打合せなさい」と、まさかまさかの神様降臨。
さらに図々しくも家賃減額も相談すると25万円と以前の5万円さげてくれることに。ま、それでも高いけどこの時は飛び上がるほど嬉しくて。
次はちゃんと防音設備を整え、スポットライトもブラックライトなどド派手なものはやめて、お酒や食器が美しく見える電球に統一。そしてメニューも乾きものだけでなく、今あらためて手料理を楽しんでもらえるようにレパートリーを増やしました。総工費300万円以上かかったそうです。
こうして火事から約半年の時を経て10月10日に無事リニューアルオープンすることができました。
常連客たちが大勢集まってくれて本当に喜んでくれました。みんなの顔を見ることが、これほどに楽しくて嬉しいことだったのか、と思い知らされるばかり。
災難、被害と思っていたことが、実は自分を見改める、多くの人たちに愛され守られていることに気づく、そんな絶好の機会となったのです。僕にとって最強最高のコンサルタントは常連客や新しい大家でした。そしてもうひとつ、飲食店を営むには店舗総合保険はマストですね。