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蕎麦変人おかもとさん #7

第七話 大阪から新幹線に乗って京都まで黒姫を食べに行く

(第六話 我らがホーム、ミナミの『かしわぎ』)

 日を追うにつれて、岡本さん単独による蕎麦行脚に拍車がかかっていたようだ。給料日後には、必ずどこかの蕎麦屋を数軒はしご。昨夏のボーナス月には一日三軒はしごを何日間にも及び繰り返していた。冬のボーナス後に至っては一日で三府県をまたにかけ、一日四軒七枚の蕎麦を平らげるなどと「もっと素早く歩くコンピュータ」へとチューンナップされていた。一ヶ月の平均は三〇枚を下ることはまずなかったようだ。

 一九九六年、十一月ある日の夕方、仕事を終えた岡本さんから電話が鳴る。

「さて、今日はどこのお蕎麦屋へいきましょうかね。そうだ、数日前に京都亀岡の『拓朗亭』さんが信州黒姫産の蕎麦を仕入れたというんですよ。ほら、黒姫といえばあの『ふじおか』さんがいるあそこ。どんな味か食べてみたいと思いませんか」

「うわぁ、めっちゃ食べてみたい。あの写真のような色をしているんでしょうか」

「僕もそこが気になるところです」

「ほな週末にでもいきましょか」

「うぅむ、量がそんなにないとおっしゃるんですよね。今何時だろう。六時過ぎか。ちょっと待ってくださいよ」

 といって電話の向こうで何かごそごそと始めた。まさか岡本さん、今から亀岡まで行くなどと言いだしはしないだろうか、と嫌な予感が頭によぎったら、やっぱりそうだった。

「河村さん、いまから大急ぎで新大阪駅まで行って、一八時一五分発の新幹線に乗れば、一八時半に京都駅に着くことができます。そこからダッシュで山陰線・嵯峨野線ホームまで走り、一八時三八分発の福知山行き快速に乗れれば、亀岡駅に一九時着。そのあとタクシーを使えば一五分ほどで着くでしょうから店が閉まる夜一九時四〇分には間に合います。どうしますかっ」

「えええっ、そんな。今日は僕お金持ってないですって」

「なら僕が出しておきます」

「うそでしょ、岡本さん」

「河村さん、蕎麦の旬は十一月から十二月頃。黒姫のそばはまさしく今が旬なんですよ。日本有数の名産地の蕎麦を食べることのできるチャンスです。うまい蕎麦を食わずに死ねるかっ」

「うわっ、わかりました、今すぐ出ますっ」

 時計は一七時半を指していた。当時の僕は大阪北部の豊中市郊外に住んでいた。十階建てマンションの八階である。よれよれのTシャツにジャンパーをはおり、すぐに玄関を出て、部屋の隣の非常階段を駆け下りる。そして前の通りでタクシーを拾い千里中央駅へ。ちょうど今から発車する御堂筋線なかもず行きに滑り込みセーフ。列車は十七時四九分発だった。

 一八時〇三分に地下鉄新大阪駅に到着。この駅がまたでかくていつも人が多い。階段を二段飛ばしで駆け降り、人混みをかき分けながら改札を出る。そして肩を右に左にしながら人々の波を縫って一〇〇メートルダッシュ。エスカレーターを一段飛ばしで駆け上がり、七〇メートル先の新幹線の改札口に向かう。

 すると岡本さんもちょうど着いたところのようだった。いつもの紙一重の袋を片手にもち、肩で息を吸いながら、やや天パーの髪が汗で額にへばりついている。

 東京行き新幹線発車四分前。岡本さんに買ってもらった切符を受け取り、改札を抜け、エスカレーターを駈け上り、目の前に止まっていた新幹線に飛び乗り、一件落着。

 テレビの刑事ドラマ太陽にほえろ!のように普段から汗だくになっている我々だが、今日は特別な汗の量である。ゆっくりと発車する新幹線車内を自由席に向かって歩く。

「はぁはぁ……岡本さん、大阪から亀岡へ行くのに新幹線まで使うやつはそうおらんでしょう。しかもこんな寒い季節に汗だくで乗ってるやつも変やろうし」

 岡本さんは不気味な笑みを浮かべる。

「ほんとお笑いですね。でも、すぐそこに黒姫があるんですよ。もしかしたら前川さんが影響を受けたというあの伝説の『ふじおか』と同じ原料かもしれません。きっとおいしいはず。うまい蕎麦があればどこまでも、ねっ」

「はい確かに。蕎麦は生き物。今日の亀岡を逃してはもう二度とないかもしれません」

「ふふふ、河村も蕎麦がだんだんわかってきたようですね。後で念のため前川さんに電話入れますからね」

 新幹線は京都駅にきっちりと一八時三〇分に到着。福知山行き快速が三八分発の予定。が、京都の新幹線ホームは駅の最南部に位置し、目当ての山陰本線・嵯峨野線の三二・三番線は駅の最北部にあるという京都駅最長の乗り換えパターンなのであった。通常は早くても一〇分くらいは見積もっておかないといけない。ここまで来て躓くわけにはいかない。

 二人で新幹線ホームを再び太陽にほえろ! 階段を駆け下り、乗り換え改札を出て、エスカレーターを駆け上り、人混みを縫うようにして二階の通路を猛ダッシュ。僕はショルダーバッグを、岡本さんはぼろぼろの紙袋を振り乱しながら。

「河村さんっ、がんばって、あと三分ですっ。早く早くっ、こっちです」

 岡本さんは体系も江頭2:50にそっくり。細身だが筋肉質で意外にも持久力がすこぶる高いのであった。

 そしてホーム最北部に到達し、階段を二段飛ばしで駆け降りたのはいいが、嵯峨野線ホームはここから西の端っこにずれ込んでいるのだった。一〇〇メートルほど行った先に電車が見えている。アナウンスが聞こえる。

「福知山行き快速、ドアが閉まりまーす」

「はいっ~!乗ります乗りますっ、すみません」

「プッシュー。ヴィィィィィーン」

 僕らのチェッカーフラッグが振られた瞬間だった。新幹線作戦は見事に成功した。これで七時に亀岡に着くことが確定した。

「ふぅふぅふぅ……岡本さん、何とか間に合いましたね。あとは蕎麦が残っているかですね。店主の前川さん、確か前に平日の夜は暇とおっしゃってましたけど大丈夫かな」

「ここまで来たらそこは賭けましょう」

 電車は今日もなかなか混んでおり、我々はつり革を握って立っていた。快速と言えども京都線や東海道線に比べるとやっぱりレトロな車両で、なかなかに揺れる。おそらく殆どが沿線の住人で観光客はいない。ましてや今から蕎麦を食べにこの時間この車両にのっている人なんて皆無だろう。

 定刻通りに電車は亀岡駅に到着。早歩きで改札口を出て公衆電話へ。電話はいつのまにか赤電話からカード対応の緑電話に進化していた。岡本さんがカードを入れて暗記している番号をすかさずプッシュプッシュ。

「あ、もしもし、お疲れ様です、岡本です。実は今亀岡駅にいまして、いまからそちらへ伺おうと思っているのですが……」

 とその時、岡本さんの表情が固まった。

「ええっ、いや、そんなっ、本当ですか。いや、申し訳ありません」

 電話を切った岡本さんがつぶやく。

「今日はもう売り切れた、って。最近、行列ができるほど忙しくなってきているんだそうです」

「嘘でしょ。せっかくここまでオールパーフェクトやったのに」

「ふふ、でもね、黒姫の蕎麦は使ってないから今から打ってくれるっていうんですよっ。営業時間も心配することはないってっ」

「もう脅かさないでくださいよ。うっひょー。来てよかった。まさかのどんでん返しまくりや」

 タクシーに乗って十五分ほどで『拓朗亭』に到着した。店の横の延し場で前川さんが蕎麦を打っているのが見えた。簾をかき分け、窓ガラスをこんこんと叩くと、勝手口に回るように言う。

 延し場の中は蕎麦の濃厚な香りが漂っていた。

「今日は無理を言ってすみません。あらためて打っていただいてありがとうございます」

「いやいや、店に使うわけにもいかへんからね。色も香りも全然違うし。二、三回打って何人かの常連さんに食べてもらって、あと二回くらいは打てるけどどうしようかと思ってたところです。そこに岡本さんから電話あったもんやから、あぁちょうどええわと思いましてね」

「その限られた蕎麦にありつけるなんてとても光栄です。確かにいつもとは違う蕎麦の香りがしていますね。うわっ、すごく濃い鶯色をしてますね」

「でしょ。これ、とんでもない原料ですわ。ほら、色もこんなに出てるし。だいたい触った感じでわかるんですよ。これはええかもしれませんよ。蕎麦はやっぱり材料で決まりますから」

 そう言って、薄く延ばし、たたみ上げた生地を触らせてくれる前川さん。僕は鼻を近づけクンクン。

「うわぁほんまや。ごっつい香ってます。これが黒姫の香りか。楽しみやぁ」

 前川さんは包丁でトントンとリズムよく切っていく。

 あっという間に切り終え、さっそく湯がいてもらうことに。

 我々は店の正面へまわり、店内へ入る。

 柱時計の秒を打つ音をバックに蕎麦茶と蕎麦チップをいただく。ポリポリポリ……

 そして岡本さんが、店名の由来になった吉田拓郎の写真をじっと見て一言。

「ご本人には失礼とのことで、店名はタクロウ亭ではなくタロウ亭と発音を換えたっていうところが前川さんらしいですよね。礼儀や筋を重んじつつ独創する人なんですね」

「元は京都のホテルの厨房にいてはったらしいですよ。専門は洋食らしいですけど。きっと上下関係が厳しい世界だったんでしょうね」

「今増えている三たて系の蕎麦屋の多くが脱サラ組です。それ以外は老舗蕎麦屋やうどん屋、洋食レストランに勤めていたという方などいろいろで。最近は三〇代の若い方も出てきているようです。中には礼儀もなにもない人もいるという話を耳にします。ま、今や蕎麦打ち教室はあるし、本もどんどん出てくるし、誰でもやれる時代になってきてるんでしょうね」

「修行がいらんわけですね。今流行りつつある手打ち蕎麦屋はカフェみたいなもんなんでしょうね。別に誰の許しを得なくてもちゃちゃっと本でも見れば簡単に開業できてしまう。すごい時代ですね」

「そのくせ、入るやいなや、靴はそこに置けだの、客席はこちらから詰めろだの、食べる際にべらべら話しをするななどとうるさかったりするんですよ。で、どんな蕎麦かと思ったら、これがもうえぐいだけで香りも味もあったもんじゃない。おまけに小料理がたくさんついてくるもんだから蕎麦の香りを楽しめない。それで一五〇〇円とか二〇〇〇円とかしちゃう」

「そんな店、すぐにお客が離れていくんとちゃいますか」

「いや、それがウェイティングが出るほど客が来てるんですよ。こないだ雑誌にも大きく取り上げられてました。みんな凄いとか香りが違うとか何とか言って食べてるんですよね」

「それは知ったかぶりですね」

「そういうことです。これ京都市内にできた店なんですが、『じん六』の杉林さんはぼろくそ言ってました」

「これからそういう店がどんどん出てくるんとちゃいますか。味よりも場所とか雰囲気とか値段とかが重要なんでしょうね。特に京都は観光を味方に付ければ怖いもんなし。みんな味さえよかったら必ず客はくるっていうけど、それは年に一回か二回の話。本当に大事なお客は常用してくれる客ですよ。僕の薄っぺらい飲食業歴の中での数少ない確信です」

「京都は観光客で成り立つ商売がたくさんありますから。もうどちらか、って感じになるんでしょうね」

 そんな会話をしているうちに、目の前に蕎麦がやってきた。

「うわわわっ、これはすごい香りですね。それに、鮮やかな鶯色。すばらしいっ」

 蕎麦に顔を近づけて香りをかぐ岡本さん。直後、箸で真ん中から摘み上げ、そのまま一気にすすった。スバッ、スバスバスバスバッ――――

 僕も顔を近づけてからたぐう。ススッ、チュバッ、チュルチュル―――

「ひぇぇ、なんちゅうええ香りや。蕎麦を飲み込んだ後も口の中で香りが残り続けます。こんなたくましい蕎麦があるんや」

 我々は一分もしないうちに平らげてしまった。『拓郎亭』のざる蕎麦は一人前が一五〇~一六〇グラム。京都の「三たて」系の蕎麦屋では平均的な量感だ。東京の老舗にありがちな可愛い盛りの一枚半から二枚分にあたる。全部で八人前はあるというので、調子に乗って三枚続けてお代わりしてしまった。お腹一杯になったところで、笑いながら前川さんが客席にやってきた。

「まだあと一枚ずつありますけど、ちょっと休憩しますか」

 そういって同じテーブルの席に腰掛けた。

「実はこの原料は『ふじおか』さんから頂いたものなんですよ。たぶん、お店で出されてるのと同じもんやと思います。僕が頂いた時もこの印象やし。ここまでの味が出る蕎麦はそう多くはないでしょうね」

「そうか、やっぱり『ふじおか』さんところの蕎麦だったんですね。こんなにおいしい蕎麦を毎日出されているなんて。いやぁ行ってみたいです」

「あ、そうや、もしよかったら今度一緒に行きますか。来年の三月頃に行こうと思ってるんですよ。ほかに戸隠や浅間温泉あたりの蕎麦屋にも行ってみたいところがあって」

「ええ、ほんとですか、ぜひご一緒させてください」

「うぉっ、僕も聖地へ行ってみたいです」

 話題はかわって、前川さんご自身のことと最近の蕎麦業界の話になった。

「ところで前川さんは毎日お蕎麦食べられてるんですか。まさかうどん派やったりして」

「ふふ、実はそのまさかですわ。もちろん味見はしてますけどね。でも、まかないではうどんやパスタをよう食べます。正直、僕はここまで強い蕎麦は苦手で。食べるとお腹がごろごろしてしまうんですよ」

 岡本さんが組んでいた足を落としてずっこける。

「それって爆弾発言ですね。ほな、なんで生粉打ち専門にしてしもたんですか。前の麺類食堂のままでよかったんちゃいますの」

「いや、違うんですよ。僕は元々うどん好きの蕎麦嫌いやったんですけど、ホテルの厨房を辞めたとき滋賀に住む義父が突然蕎麦とうどんの店をやりたいと言いだして、山形のとある蕎麦屋へ連れていかれたんです。そこで蕎麦打ち体験に参加してみたら、これがおもろい上にめちゃくちゃおいしかった。

 なんや、蕎麦っておいしいもんやったんやと驚きました。僕はホテル時代は主に洋食部にいて、当時は西洋料理に憧れてたんですけど、当時の料理長から洋食にはもう将来はないなんて言われて。せやからちょっと悩んでるところやって。

 そこに義父が僕に麺の勉強をさせて独立開業させようと考えたわけです。まぁしかし、この通り僕は自分で開業したわけですけど。それから蕎麦の研究をするうち徐々にメニューを削っていって気が付けば生粉打ち専門に。

 でも、今なお蕎麦は謎だらけですわ。そのポテンシャルを人間がどこまで引き出すことができるのか、と毎日悩んでしまいます。蕎麦はほんまはおいしい食べ物や、ということを関西人に知らせたいと思って」

「なるほど、よくわかります。だから僕は書道家になれないんですよ。酒好きが飲み屋をやってはいけないのと同じですね。そうですよね河村さん」

「へ、なんのことやら」

「へぇ、飲み屋をやってはったんですか」

「僕のことはいいですって。とにかく、前川さんが蕎麦好きが高じて蕎麦屋をやっているのではなく、元々苦手だった蕎麦やけれども、それにはちゃんと個性があって、実はおいしい食べものやと言うことを伝えるためにされているのがよくわかりました」

 そんな話で盛り上がった後、四枚目の黒姫そばをいただくことになった。

 やっぱり今まで感じたことのない濃厚な香りと味である。岡本さんは憑かれたように無我夢中で蕎麦をたぐい続ける。『ふじおか』もすごそうだが岡本さんの蕎麦愛もすごい。

 最後はいつものトロトロ蕎麦湯をいただき、大満足の黒姫蕎麦会であった。新幹線まで使って亀岡まで来た甲斐があるというものだ。

 夜の九時半。JR亀岡駅行きのバスはまだあったが、寒いだろうからと前川さんが亀岡駅まで車で送ってくださった。

 我々の亀岡詣ではまだまだ続く。

「第八話 蕎麦屋と共に三たて総本山詣で」

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