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幻の迷店『麺酒房 かしわぎ』序章



序章 忽然と消えた『かしわぎ』


 二〇〇四年七隣の団地である。

「んなもん今までテレビなんかでほとんど放送せえへんかったくせに球団がなくなると決まった途端みんな大騒ぎしとる。球場は毎日ガラガラやったから取り壊しになったわけで」

「そうねぇ。私は野球を観ないしまったくわかんないわぁ」と缶ビールをグラスに注ぎながらカミさんが応える。

 ブゥゥゥンブゥゥゥン。電話が鳴った。

 誰だ、こんな時間帯に電話を掛けてくるやつは。画面を見ると、仕事仲間の編集者なかもっちゃんからだった。

「どうした、飲んでるんか」
「あ、ケンちゃん、今話しても大丈夫かな」

 なにやら神妙なトーン。一瞬にしてどんよりとした重たい空気が漂った。

「なんや、どうかした」
「驚かないで聞いてね。すごくショックな話なんだ」
 彼女の声が少し上ずった。

「うん、あのね、柏木さんが、死んじゃったって。噂、噂だよ。私も確認してないから本当のことわかんないんだけど、でも、でも、こんなデマは流れるとも思えない。脇田さんからさっき電話があって、そこで私も初めて知ったの。だから、だからケンちゃんのほうからも確認してみて」

 脇田さんというのは、なかもっちゃんが懇意にしている京都の料理研究家ククさんのご主人であり、柏木さんの唯一の弟子でもある。照れ屋で無口な柏木さんは常々「弟子とか先生という関係は好きじゃない」といっていた。が、この脇田さんだけには技を伝授したのであった。「なにがなんでも柏木さんが好き」と無理を承知で門をこじあけてきた男気のある方だ。

 当時の僕は専業ライター。『かしわぎ』には大阪の編集業界人やそれにかかわる者たちが多く集まっていた。

 なかもっちゃんのうなだれた声を聞いて、僕は全身の筋肉が破砕されたようにその場に膝から崩れ落ちた。額にゆっくりと汗が流れ落ちる。

 そんな馬鹿な。信じられない。

 時刻は9時半。
 そうだ、店に電話してみよう。ひょっとしたら何かの間違いかもしれない。
 プルルル、プルルルルルル。
 出ろ、電話に出ろ、柏木さんっ。

「プルルル、ガチャ。はい、柏木です」
 出たっ、出たやんか、柏木さんっ、僕です。

 少し間をおいて「本日はまことに勝手ながら休業となっております。営業時間は夕方六時から夜の〇時まで。定休日は・・・」

 柏木さん特有の間を感じる留守番メッセージが流れた。
 いや、待てよ。今日は休みで家のほうにいるのかもしれない。そうだ。
 今度は滅多と電話することのない部屋の番号にかけてみる。

 プルルル、ガチャ。
「はいっ、柏木です」
 出た、おかあさんの声だ。

「あっ、お、おかあさん。あの、あの、柏木さんはどうしてるの」

「あのねぇ、父ちゃん死んじゃったぁ。酒飲んで、頭ぶつけてね」

「うそでしょ、それ本当の話なの。なんで、なんで死んだの」

「私もよくわらないよ。とにかく、酒を飲んで、その日はえらく酔っ払って、それでどこかで頭を強く打って、そのまま死んじゃったんだよ」

 恐ろしいくらいにおかあさんはきょとんとした口調で話した。普通なら泣き叫ぶようなことなのに、いつも以上に穏やかに、そして静かに。

「おかあさんは大丈夫ですか。ちゃんとメシ食べてますか」

「あぁ、あたしゃ大丈夫だよ。さっきうどん食べたからさ」

「でも、柏木さんはどうして」

「それがあたしにもよくわかんないんだよぅ」

 だめだこりゃ。なにを聞いても真相が見えてこない。この方は元々、躁鬱が極端で掴みどころが難しい性質である。

 テレビからはニュースを冷静に読み続けるアナウンサーの声がただ流れていた。

 どうすることもできず、僕は布団をかぶってただただ咽び泣いた。

 翌日、脇田さんのところへ電話する。

「そうなんよ、ほんまの話や。東京のご遺族から連絡がきてんけど、なんや詳しいことはご遺族もようわからんらしい」

 柏木さんが八。

 子供さんたちの話はご本人から今まで何度か聞いたことがある。なのでそれは本当のことだろう。だが、そうならば大阪にいる「おかあさん」はいったいなんなのだ。あまり立ち入るのもよくないと思い、今まで聞いたことはなかった。おそらく他の人たちも同じように感じていると思う。

「わかってるんは酔っ払って転倒して、道路に頭を打つけたことが原因、つまり脳挫傷による脳内出血。死亡推定日時は七月二〇日の午前九時頃ということだけやわ」

 だんだんと実感が出てきた。さらに脇田さんは続ける。


「なにやらその日に息子の次男さんが結婚をする報告をしに大阪に来ていたらしい。せめてもの救いがあるとしたら、めでたい酒やったことやな。嬉しくて嬉しくて、ついいつも以上に酔っぱらった。それでそのままあの世へいってしまった。そう思うと、いい死に方やったのかもしれへん」

 柏木さんご本人から「次男がなかなか結婚せず、それだけが心残り」とは何度か聞いたことがあった。その息子さんが僕と同世代だったらしく。

「でも、それ以上のことはご遺族の方々も把握できてないらしい。葬儀は東京のご遺族のみでしめやかに行われたと。僕らにはどうすることもでけへんな。ほんまに寂しいわ」

 夢か幻か、嘘のような本当の話である。

 八月一日、夕方。
 僕はカミさんと共に『かしわぎ』の後片付けを手伝いにいった。地下鉄「心斎橋」駅をおり、大丸百貨店側の出口を出て、東心斎橋の湿っぽい路地を東へ抜ける。そして堺筋を越え、島之内エリアに。この辺りはニューカマーコリアンタウンとなりつつあり、通りにはハングル語表記のみの食堂や床屋などが数軒できていた。そしてコリアン系も顔負けなほどド派手なネオンの激安スーパー玉出の前を通ったら左折して五〇mほどいったところに『かしわぎ』がある。創業地は繁華街の東心斎橋のど真ん中だったが、数年前にここ島之内に移転したのだった。

 店内に入るとすでにある程度の掃除は済んでいた。薄っすらと差し込む外の夕陽が、柏木さんがいつも腰掛けていたパイプ椅子と、白い蕎麦粉と埃で艶を失ったカウンターをぼんやりと照らし出す。

 その椅子の横には蕎麦粉が入ったブリキの缶、無造作に延し台の上に置かれた延べ棒、その上には雑誌や新聞などが山積みとなっている。

「やっぱり柏木さんって元編集者なんだね。雑誌や新聞がこんなにあるんだから。そばの延し台の端が書棚みたいになってるよ」

 柏木さんはそば屋になる前は、東京に本社のとある出版社に勤めていたという。元々編集者として東京で活躍し、大阪に支社が出来ると同時に支社長として赴任。その後、定年を機に帰京することなく、大阪・ミナミでそば屋を開業したのだった。

 その中にいつしか僕が手渡した仕事ファイルも挟まっていた。自分が執筆してきた中で、駄作ながらもぜひ柏木さんに見てもらいたいと思うものを選出した作品集である。ビニールファイルの中に納まっているものの、何ページかは汁かダシが染みて茶ばんでいた。

 ただ、これら以外はどこを見渡しても殆どの物品はなくなっている。普段は湿気ている厨房の床もすっかり乾いていた。東京のご遺族が整理されたのかもしれない。

 そして、おかあさんは何を言うわけでもなく、カウンターの隅あたりでタバコをふかしながら膝をカクンカクンと繰り返している。これは以前からのお決まりの癖なのだ。

 とりあえず、何本かの地酒を住居が入る五

 そうこうするうちに、ふと、あることに気づいた。それは柏木さんがいつも酒を飲むために愛用していたボコボコに凹んだ計量カップがどこにも見あたらないことだ。

 おかあさんに尋ねると、ポカーンとした表情でよく伝わってない様子。その場で脇田さんに電話する。

「そうやねん。あの軽量カップが出てこーへん。いったいどこへいったんやろう」

 さてはあの世へ持っていったか。

 十八時過ぎ。細々とした荷物を部屋まで運び終えた僕とカミさんはそろそろお暇する。そして階段を降りて、もう一度だけ店先にたつ。

 普段ならこの時間くらいから、店先に行灯、入り口に暖簾、そして「麺酒房」の文字が入った白い提灯がかかる。それが今は艶を失った格子戸が硬直したまま。入り口の上にかけられた『かしわぎ』の木の看板のみが取り残されている。

 いつも帰るとき、柏木さんはここまで見送りに出てきてくれていた。あれほど人生の重要な時間をすごしてきた場所というのに、あまりにも呆気ない幕切れである。

 そして何より、他の常連客たちが心配するであろう。そりゃ希に店が閉まっていることはあるにはあった。しかし常連客ならきっと気づくであろう。この格子戸の冷たさはいつもと様子が違うと。

「閉店のお知らせみたいなものを張っておいたほうがええんとちゃうか」

 僕がそういうと少し間をおいてカミさんはこう応えた。

「いや、そっとしておこうよ。柏木さんならきっと何もしなくていいよって、ほらあの計量カップで酒を飲みながらそういうんじゃないかな」

 確かにそんな気もする。 
 僕たちはその場で店に向かって手を合わせた。

 こうして『かしわぎ』は大阪・ミナミから消えた。

第一章 大阪ミナミにモッタモタの江戸っ子参上

第二章 喉が渇く!

第三章 酔っ払いの救世主

第四章 別れと新たな出発




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