幻の迷店『麺酒房 かしわぎ』第一章
第一章 大阪ミナミにモッタモタの江戸っ子参上
一九九五年、一月下旬。
夜七時頃、大阪地下鉄「心斎橋駅」改札前で岡本さんと待ち合わせた。
岡本さんとは、僕のライターの師匠であり、そば屋探検隊隊長でもある。ライターの師匠と言っても彼は一般的なサラリーマン。でもかなりの変態なのである。
日本語はもとより、英語、中国語の読み書き喋りができる。一度でも見たもの、通った道、聞いた名前など、すべて記憶できてしまうのだ。服装は仕事がない日でもスラックスにネクタイ姿。顔と体系は江頭2:50にそっくり。出身は広島、大学は青学だが銀座のそば屋で競馬とそばにハマって中退し、後に縁あって来阪。そして僕が当時ラウンジの運営を請け負っていた高級スポーツクラブのフロントマンとして働き出し僕と出合った。
自称「麺喰い」。特にそばには目がなく、ケータイもネットもない時代から、一人で一日に何軒もそば屋を梯子したり、店主と親しくなって一緒にそば産地まで仕入れに行ったり、そばの収穫を泊まり込みで手伝ってしまうような正真正銘の蕎麦変人である。
さて、いまからそば屋「かしわぎ」へ行く。僕は初めてである。
岡本さんと共に人でごった返す心斎橋筋商店街を歩く。どこからかミスチルのイノセントワールドが聞こえてくる。
♪変わり続ける~街の片隅で~、夢のかけらが、生まれてくる~Oh~今にも、そして僕はこのままで~、微かな光を~胸に~♬
「それにしても南のど真ん中で手打ちのそば屋ってのも斬新な話ですね」
「そうですね。関西ではそばなんてうどんの補欠扱いですもんね。そこで手打ちのそばをやるって言うんだから。幟はかかっていても本当に手打ちでやってるそば屋なんて関西に三,四軒しかないでしょう」
今のように関西においしい三たてそば(挽きたて、打ちたて、湯がきたて)が増えたのは九〇年代後半のこと。当時はまだ極めて稀なスタイルであった。
大丸百貨店の角を東へ曲がり、人混みを縫いながら東へ進む。
「ご主人の柏木さんはどうやら東京の方のようで、こちらには転勤でこられてたみたいです。おそらく定年されてここミナミでそば屋を開業したと。いい御歳だし、東京人なら普通は帰京すると思うんですけどね」
「ほんま不思議ですね。でも、なんであれ大阪ミナミのど真ん中で手打ちそばが食べられるのは嬉しいです。あぁ楽しみ」
と、わずか数分で『かしわぎ』に到着。間口二メートルほどの店先に『麺酒房かしわぎ』と黒の毛筆で書かれた白い提灯がかかる。向かいはカラフルなネオンの銭湯『桃の湯』だ。大阪の遊び人たちが飲んだ帰りに立ち寄る、ちょっとした隠れスポットである。
岡本さんが引き戸の前に立ち、僕に先に入店するよう促した。ズルズルズルと引きずるようにしてアルミサッシの戸を開けると、そこにはとてもそば屋とは思えぬ景色が広がった。
奥にまっすぐ延びるカウンターが一本。七、八席はあるだろうか。手前から二番目の席にスーツ姿の中年男性が一人ポツン。そして一つ空けて真ん中辺りに、タイトなスーツを着た三十代前後の茶髪女性と、ネクタイをゆるめて顔を赤らめる同伴風の五十代禿げ男が、でれでれと笑いながらいちゃついている。これはそば屋ではなく、完全にコロン臭いスナックだ。
「あ〜んらぁ、いらっしゃ〜いませぇ」
鼻が詰まっているような間抜けた声が奥のほうから聞こえた。やや低いトーンで少しばかり枯れた感じの声。細身で背丈は一五〇センチくらいか。頭に赤紫のスカーフを三角に巻き、カエルが酔っ払ったようなふにゃけた顔つきでこちらに微笑む。これがおかあさん(以降オカン)である。
一方、手前で中肉中背の男が壁側に置いた大きな釜の前に立ち、茹だったそばをステンレス製のザルでぎこちなく掻き集めている。背中を丸めて俯くような格好で、腕をもたもたさせながら。
これが柏木さんだ。頭には薄茶色のもっさい毛糸の帽子がのっかっていた。
岡本さんがカウンターの奥を覗き込む。奥のほうから亡霊のようにゆっくりと手を振るオカン。一番奥が空いていた。
カウンターは少し位置が高い。椅子は薄っぺらいスポンジと合成皮革、背もたれはステンレス風の金属で高さ十センチほど。首を振るたびにキュッキュッと油の切れたような音がする。やっぱりここはスナックの居抜き店舗か。
それにしても狭い。椅子から壁までの間隔が七、八十センチしかないから、客が座ると通路が塞がってしまう。我々はその茨の道を掻き分けるようにして奥へと前進した。
ようやく着席し、ふと柏木さんを見ると、依然、釜の前でもたもたと手を動かしている。親指と人差し指、薬指の三本でそばを少しずつ摘み上げ、それを左手に持ったざるに丁寧に盛っていく。そんな手つきではそばが伸びてしまうのではないか。
「ぶわっはっはっは、こんちわぁ」
近くで聞くと、美川憲一と樹木希林を合わせて二で割ったような、粘り気のあるオカンの声。
隣席からは同伴風の連中が肩を寄せ合いながら「うっしっしぃ」「いやぁあんもぅ」と聞こえてくる。くさいくさい。が、柏木さんはそんなのまったくおかまいなし、というか自分の手元に集中だ。先ほど盛ったそばを手にして、ゆっくりと身体を回転させ、カウンター越しに提供。そこで、ふぅっと我々の存在に気づいた。
「あぁぁぁぁ、いらっしゃい」
身体つきはがっしりしていてやや寸胴型、タレントの伊東四朗が垂れ目になったような大きな顔である。大きな眼鏡は、ソバ粉が付着していて曇っていた。
柏木さんは再び宇宙遊泳するかのようなスピードで釜のほうに向き直り、もそもそと作業に戻っていった。
そんなときだ。突然チーーーーーーーンと興醒めのデジタル音。
オカンが電子レンジの扉を開けると中にはお絞りが二つ。焼き芋のようにモクモクと煙が吹き上がっていた。オカンがお絞りに手をやり、雄たけびと共に腕を振り上げて厨房の奥へ投げ捨てる。
「あっちっちぃぃぃ、なんだよっ、これ本当に馬鹿な電子レンジで困っちゃうよぅ」
美川憲一的な絶叫が店内に響く。その瞬間、柏木さんはオカンをちらり。が、また何事もなかったかのような表情で顔を釜のほうへと戻した。お客たちはそっちのけで酔っている。
「大丈夫ですか、おかあさん。気をつけてくださいよ」と岡本さん。
「ちょっとまってねぇ。少し冷ますからさぁぁぁぁ」
僕は戸惑いながらも、透明の下敷きに入ったA四サイズの二枚のメニューに目をやる。一枚は酒で関西の地酒がざっと二、三十種類。そしてもう一枚がそばだ。
二八そば 七五〇円
白雪そば 八五〇円(一〜二番粉で打った白いおそば)
田舎太打ちそば 七五〇円(懐かしい黒くて太い野趣あるおそば)
二色 九〇〇円(お好きなおそばを二種類)
と、右端に太文字で書かれていて、真ん中辺りに「ぶっかけそば八五〇円、鴨なんば一二五〇円」などの温かい種ものが。左側には「しじみの醤油漬け、ネギネギ小鉢(ネギとカツオ)、冷奴、そば団子(当店ならではのそばがき)、焼き味噌(当店の名物。中にそばの実がはいっています)」とある。
「ね、食堂のそば屋とは違う感じでしょ。あっ、あっちぃ。居酒屋というほどじゃないけど、酒が飲めるそば屋という東京にありがちなスタイルです。あっつぅ。さて、カワムラさんは何を頼みますか」と岡本さんはお絞りをお手玉のようにして言う。
「よくわからないので”ぶっかけそば”にしようかな」
「ふむ、冬にぴったりでいいのですが、江戸式の手打ちそばというのは明るい色に喉越しのよさと甘みが魅力。おまけにこちらは国産のいい原料を使っているので香りがいいのです。なのでストレートに味わえる冷たいそばがいいと思うんですよ。どうでしょう、僕が白雪を注文してカワムラさんが二八というのでは。やはり江戸そばの基本は二八ですから」
「さすが岡本さん、では二八を」
柏木さんは相変わらず、ガス台や釜の間をゆっくりと行ったり来たり。オカンは何を食べているわけでもないのに口をもごもごと動かしながら、幅五十センチの小さな穴が二つ開いた二層式のシンクに向かって洗い物。そしてなぜか二秒に一回、カクッと身体を下げる。
じっくり観察していると、一瞬身体を沈ませた後、今度はゆっくりと上に伸び、そして再びカクッと五センチしゃがむ。終始一定したこの動きの中で、オカンはグラスをキュッキュッと洗っては、ゴトンとシンクの中に落としたりする。
再び隣の客の声が耳に入る。
「もうっ、部長さんっあかんって、ほんまいややわぁ〜ん」
「はぁん、ええやないか、な、ちょっとだけや、いこ、いこう」
岡本さんが言う。
「ね、面白いでしょ、この店。東京では飲めるそば屋は普通にあるんですけどね」
「いや、でもここまで下品なノリじゃないでしょ」と僕は小声で返す。
「そうですね、ここまで庶民的な店はないか。ま、これが大阪風情といえばそうなんでしょうね」
「よう店主やオカンがキレへんもんです」
「いや、おかあさんはけっこうキレることがあるそうです。こないだも店の中が凍り付くほどの雄たけびをあげて追い出してました。で、塩をどっさりとまいて。何やらその客のマナーが悪いとかで。でもご主人はうっすらと笑みを浮かべるだけでなんも言わない」
「なにそのコントラスト。ブチギレのオカンと微笑みのご主人。一瞬、たいへんやなと思ったけど、これはまさかの、お客の方が大変な思いをする店の登場かも知れませんね」
「しっ、カワムラさん謹んで。おかあさんに聞かれたら大変なことになりますから」と人差し指を口に当てる岡本さん。
未知のシチュエーションの中でひそひそ話をしているうちに、目の前にそばがやってきた。まずは二八だ。
黒いお盆にざる、生のおろし山葵、青ネギの刻みと大根おろし、そして高さ五センチほどの徳利と空の猪口が一つ。まずは空のままのそば猪口にそばをたぐい一気にすすった。と、甘い香りがぷわぁんと鼻腔内に広がった。
「なんですか、この香り。これがそばの香りなんや。それに柔らかなのにコシがある。瑞々しくて喉越し最高です」
二回たぐった後、猪口にダシを深さ五ミリほど入れて、さらにそばをすする。ややとろみをもち、しょっぱいながらもうまみの濃いダシ。
「これを江戸そばの世界では汁(つゆ)と呼びます。向こうでダシと言うと昆布やカツオのただのスープのこと。醤油にみりんや砂糖を加えた元ダレをカエシと言って、それとダシを割って汁を作るんだそうです。一見は濃いけど関西の薄口醤油よりも甘みがあってまろやかな醤油と鰹の濃い香りが特徴です」
「そうか、この美しく瑞々しいそばと醤油と鰹の汁の組合せが江戸そばなんや」
その後、ネギ、山葵の順で、ものの二、三分で平らげてしまった。少し小盛りにも思えた。もっと食べたい。岡本さんの白雪がでてきたと同時に田舎そばを追加。
柏木さんが田舎そばらしきものを掴み取って釜に投入する。そこに突如二階から真っ赤な顔をした四十歳代くらいのサラリーマンが三人、大声で笑いながら下りてきた。
「ご馳走様っ。いやぁ、大阪にも僕たちが来れるそば屋さんができてよかったっす。また来ますんで、よろしくおねがいしまっす」
言葉のアクセントからして関東系の出張組か赴任系のようである。オカンにそう語りかけながら、一人の男が僕らの後ろを掻き分けるようにして戸口のほうへ進み、財布を取り出して止まった。が、柏木さんは気づかないのか、愛想がないのか、釜に向かってそばを見つめたまま。
「あのぅ、すみませ〜ん。お勘定ぉっ」
「あ、あぁぁぁ」
柏木さんはゆっくりと男のほうを振り向き、濡れた手を一度エプロンで拭き取りつつ、その指をペロンと舐め、しわくちゃになった伝票を取り出す。そしてカウンターの上に算盤を置いてパチパチパチ。で、三秒ほどして値段を告げた。
「えぇっと、六八〇〇円、になりやす」
想定外のスローリズムに男はぎこちなくかくかくとした動きで一万円を出した。柏木さんはそっと受け取り、横に置いてある青いザルに手をやる。そしてくしゃくしゃの札数枚と小銭を取り出しお釣りを渡した。
「あ、どぅも、ありゃとうございあしたぁ」
奥からオカンも「どぅも、ありがとぅございましたぁ」
あれれ、とても軽やかな声。どうやらオカンは、客が帰るときが一番嬉しいようである。
と思ったら今度はタイマーがピピピピッ。
「あ」と柏木さんは小さな声をだして、一応慌てているようだがかなりスローに釜に向ってステンレス製のザルを突っ込む。あれはまさしく僕が注文した田舎そばだ。
出てきた田舎そばを、先と同じ要領で食べ進む。
「こっちは心なしか色が黒ずんでいて、やや太いんですね。二八以上にそばの味が強く、どっしりと重量感があります」
「これは挽きぐるみってやつで二八と違って野趣が売りなんですよ。喉越しよりも味とか食感とか。いわゆる田舎そばとは、そばの実の硬い外皮を挽きくるめるものなんですけど、柏木さんが勉強された『一茶庵』という店では、その内側にある甘皮と呼ばれる部分のみを含めるのだそうです。ま、いずれにせよ、野趣を持たせたタイプであることには違いないでしょう。だから温かい汁タイプともよく合うんです」
岡本さんが頼んだ白雪も一口いただく。
「これはそばの実の中心にわずかに入っている白い粉で打つから真っ白なんですよ。特徴はこの透き通るような美しい白色と食感。関西には少ないけど、東京や信州なんかへ行くとこの粉を使って茶切りや柚子切りなんて言って、いろんなものを入れてその色や味を楽しめるそばがたくさんあります。一番粉とも呼ぶようで。柏木さんが仕入れていらっしゃるものは御膳粉という品名だそうですが」
岡本さんは本当に詳しい。青学時代のあだ名は歩くコンピュータ。一度見聞きすると本当に全部覚えてしまうのだ。
しばらくがたち、柏木さんの手が空いたようで、ゆっくりとこちらへやってきた。大きな眼鏡が蒸気とソバ粉で思いっきり曇っていた。
「むふふ、うちゃあ水商売のお客さんが多いもんだから、このとおり飲み屋が始まる頃になるとみんな出勤していくんだね。ここからちぃっとばかしシマ(暇)になんですよう」
「やっぱりつくづく不思議なそば屋ですね。本当に東京にこんなそば屋があるんですか」
「ふふ、向こうは酒があると言っても居酒屋じゃないんだよね。だいたい東京のそば屋はシルマ(昼間)っから休憩なしでやってっからね。海苔や板わさだけでというのは少ないと思うけど、ちょっとした煮物や焼き物など小皿料理と酒をやる感覚だね。で、おそばを食べたらさっさと出ていくような感じで。長居する客はほとんどいないよ」
「そう、だから一人客がけっこう多いんですよ。僕がバイトしていた銀座のそば屋もそうでした。それ以外はお昼ご飯として食べるか。もちろん二人組とかもいるけど大阪の居酒屋みたいに賑やかじゃない。シンプルに食べたい人や大勢の場合は出前を頼んできますから」と岡本さんが続く。
「わかる気がします。僕は二〇代の頃、築地魚河岸の仲買で働いてたんですけど、当時の上司が大の競馬好きで、テレビと新聞のチェックのためにしょっちゅう魚河岸近くのそば屋に身を隠していました。そのそば屋がまた長靴に競馬新聞を差し込んだ一人客ばかりで」
「いたねぇ新聞を長靴に差し込んでるの。へぇ、そうなの、かし(河岸)仲買で働いてたんだ。実はうちも元々築地で商売やっててね、やっちゃば(野菜や果実の仲買)だけど」
「そうなんですか、お住まいもあの辺ですか」
「すぐ隣、明石町あたり。昔は大勢の従業員が一緒に住んでてね、賑やかな家だったよ。あのあたりも何軒かそば屋があったね。だいたいちょっと古めのそば屋は休憩なしで開けっ放しだから、なにかと都合がいいんだよ。でも、深酒するような場所じゃないから。そういう時はまたそば屋じゃない他の店へ梯子しちゃう」
「そういう意味で銀座なんかは最高のロケーションでしたね。築地からも歩いてこれるエリア。ビジネス街もあれば繁華街もあるし、京都ほどじゃないけど古めかしい家や商家もちらほらと」
「岡もっちゃんはその辺りを自転車で出前いってたんでしょ。もしかしたらそば屋になってたかもわかんないね」
「いえいえ、出前っつたってアルミ製の岡持にいれていくんです。あんな何段も積むのは職人技。それに僕はただ麺喰いなだけでこれからも普通のサラリーマンです」
「アルミ製の岡持って僕が中華屋時代に出前で使ってたのと同じやつですね」
「なに、カワムラ君は中華料理屋にもいたの」
「ええ、十代の時にバイトで」
「ほぅ」と少し不思議そうな表情で僕を見る柏木さん。岡本さんがすかさず説明する。
「ええ、カワムラは若いのになかなか波乱万丈でして。中華屋、カフェ、その後高級スポーツクラブのラウンジを委託経営して、そこで僕と出会ってるんです。ただ、彼はすぐに上京して築地にいってしまったのですが」
「ふふ、おもしろいね。築地からどうやってライターになったわけ」
岡本さんがぷっと噴出し、手で口を覆う。
「ま、色々ありまして大阪へ戻り、今度はバーをオープンしたのですがここで僕はアル中になってしまいまして」
「いや、いい店だったんですよ。当時は車を持ってなかったので自転車で一時間以上かけて通いました。酒飲めないんで水もってね。でもカワムラがどんどん痩せていって体調を崩して。ストレスが原因だったんでしょうね」
「もうどの酒を飲んでも酔えないんですよ。酷いと身体が冷えて動けなくなって倒れてしまう。そのたびに岡本さんが見舞いに来てくれたり、救急車を呼んでくれたこともありました。そんな状態が続くうちにとうとう店が燃えてしまったんです。一応はボヤ扱いですが、店内は事実上全焼レベル。三,四ヶ月の営業停止を経て、大家のおかげで奇跡的に再開しましたが。
そんな時にある人から”君はモノを書くといいよ”とアドバイスを受けて、何かにとりつかれるようにして本当に書きだしたんです。ただしワープロはできないし漢字もほとんど書けない。句読点も意味不明だから(、)なしで原稿用紙に書いてました。この通り国語力は限りなくゼロでしたので岡本さんの存在がより大きくなったわけです」
「おもしろいよ、カワムラ君。岡もっちゃんは本当によく言葉を知ってるし本も読んでるから、いい師匠だね。店もめちゃくちゃ知ってっから。特にそば屋は」
「そうそう、カワムラは本当にプロの物書きになれそうでして、ついこの間ぴあ大阪版で連載を始めたんですよ。”河村研二のマナ板の恋”といっていろんな飲食店の話をするんですが、そのコーナーのイラストも彼が書いてます。店でもメニューはすべて自身の手書きでいい感じなんですよ」
「あれ、まだ店やってんだ。どこで」
「ええ、大阪北部の箕面です。ただ、僕としてはなんとか物書きとして食って行けないかと思っていまして。結婚もしたいし。店は本当に大変で、なにせ家賃が三一万五千円もしますから。田舎で十四坪なのに」
「ええっ、そんなにするの。ミナミより高いや。箕面ってそんなにお客さんいるのかね」
「いやいや、自然が豊富な閑静な住宅街です。バブル期はドライブ仕様のおしゃれなカフェやレストランが立ち並びましたが、カワムラの店はそこからかなり離れたエリアで駐車場もありません。よくやってると思います」
「正直もう疲れ果ててます。一杯五〇〇円のキャッシュオンデリバリーなんですけど、これをいったい何杯売ったら家賃を払えるのかと。それでも店は娘みたいなもので簡単には手放せない。どうするか今悩んでいるところです」
「そう、カワムラの青春そのものなんです。いい風になってくれればいいと思いますけど。とにかくライターとして稼げるようになるまで僕は応援しようと思っています」
気が付けば先までのスナック調の騒がしさはなくなっていた。換気扇の回る低い音とBGMの五十年代あたりのオールドジャズが響いている。
オカンは虚空をみつめては膝のカックン運動。と思ったら突如なにかを思い出したかのように二階へ上がっていった。スリッパをササー、ササーと引きずりながら歩く音がする。どうやら二階を片付けているようだ。
店は深夜一時頃までの営業らしい。十一時頃に二回目の波がくるのだとか。そろそろお暇することに。
「ありがとう。またね」と柏木さん。静かで穏やかなその笑みがたまらなく安心感を呼んだ。
ド派手なネオンと黒服とコロン臭い路地を歩きながら岡本さんが言う。
「あの店、独特の雰囲気があるでしょ。東京の味が大阪で楽しめるのが嬉しいんですよね」
「いやぁ衝撃的。まさにイノセントワールド」
商店街手前のコンビニで岡本さんは冷たいお茶を一本買って一気に飲み干す。
「柏木さんのそばを食べると毎回喉が渇くんです」
「確かに、やたらと喉が渇くなぁと思っていたところで。最初は濃口醤油とカツオのうま味がええなって思いましたけど、つゆがやっぱり濃いんでしょうね。時間がたつほどに喉が乾いてくる」
「そう、まさに辛口『かしわぎ』。どれだけゆっくりと穏やかでも、柏木さんやっぱり江戸っ子なんだなぁ」