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【短編】男の子はつらい。でも、頑張るしかない。【男はつらいよの日】
夕焼けの校舎を見下ろして、僕は小さく息を呑んだ。
真っ赤な校庭には誰も居ない。
吹き抜ける風に目を細めながら、ゆっくりと屋上のフェンスに手をかけた。
ギシギシと音を立てるフェンスは、僕の身長よりは十分高かったけれど、幸い運動神経の悪くない僕にとって、それは大きな障害にはならなかった。
だから、簡単に乗り越えられた。
見下ろすとそこには、遮蔽物も何も無い真っ赤な世界。
空も、雲も、校舎も、校庭も。
遠くに見える街並みも。
全部、真っ赤に染まった世界。
その綺麗な景色を、僕は心に刻んだ。
これが、僕の最期の景色なんだと、心の奥に刻み付けた。
「……」
後は一歩前に足を出すだけ。
それで、終わり。
僕の十四年の人生も、辛いだけの日常も。
それで全部おしまいできる。おしまいになる。
「……」
終わらせようと、決意してここに来た。
屋上に上がる階段も、屋上のドアに手をかけたときも、フェンスを乗り越えるときだって、躊躇う事無くすんなり出来た。
だから、あとは一歩踏み出すだけ。
ここに至るまでのどの手順よりも単純で、簡単だ。
「……」
でも、その一歩が、他のどんな手順よりも重くて難しかった。
「………っ」
動け、動け、動けっ!
目をきつく結んで、縫い付けられたように動かなくなった自分の脚に、必死の思いで命令した。
あと一歩、たったの一歩だぞ。
それで終わり、それだけで、こんな世界と分かれられる。
あとたった一歩で、苦しまなくて良くなるんじゃないかっ!
頑なに動こうとしない足を、握り拳で思い切り叩いて心で叫ぶ。
「……」
でも、その一歩が踏み出せなかった。
目を開ける。
見下ろした高さに眩暈を覚える。
吹き付ける風に、吹き飛ばされるんじゃないかと恐怖する。
ガクガクと情けなく震える膝に、思わず背中のフェンスを掴む。
「…………」
やっと気付く。
足が動かない理由。動けない理由。
眩暈も、膝の震えも、何もかも、『終わる』為に必要な『ある過程』を目前にして沸き起こった恐怖が生み出したものだった。
辛いだけの日々を終わらせたくて、救いの無い世界を離れたくて、何もかも終わらせたくて屋上のフェンスを越えたのに。
目の前の『死』というものに、ただ恐怖した。
怖かった。
死ぬことは、何より怖かった。
終わらせたいなんて思いながら、わざと考えずにいた『死』。
圧倒的な高さは、愚かな僕にもはっきりと『死』を予感させた。
こんな高さから落ちたら、僕の頭はトマトみたいに簡単に潰れる。グシャリと。
そんな光景が、頭を過ぎって、僕の身体はまた震えた。
「で、飛ばないの?」
その声に、僕は弾かれた様に振り向いた。
屋上の入り口、そのすぐ脇に僕を見つめる少女が居た。
視線はじっと僕を見ていて、綺麗な瞳と真正面から目が合った。
「飛ばないの?」
振り向いた僕に向かって、彼女はもう一度はっきりとそう言った。
今彼女はなんて言ったんだろうか?
一瞬それすらも分からなくて、目を瞬かせてしまっていた。
フェンスを挟んで立つ僕に向かって、彼女は飛ばないのかと問いかけて来た。
飛ぶ……それは、今僕にとって死ぬと言うこと。つまり彼女は、僕に「死なないのか?」と問いかけているという事だ。
背筋に冷たい汗が伝った。
「そんな所にずっと立って、何をする訳でもないってことはないじゃない?」
そんな風に言いながら、ゆっくりと僕に近づいてくる彼女。
その足取りには迷いが無くて、一直線に僕に向かって歩いてきた。
「このフェンスは、この先に行ったら危ないからあるんだよ。フェンスの内側、つまりこっち側が安全地帯」
カシャリと、彼女はフェンスに手をかけた。
「そっち側はね、危険地帯。そして、そっちに行くには、このフェンス乗り越えないと行けないんだよ」
ガシャガシャと音を立てて、何の苦も無くフェンスを乗り越えると、僕の隣に立って彼女はにっこりと笑った。
僕は、もう何がなんだか分からなくて、ただ彼女の奇行に驚いていた。
彼女は何がしたいのか?
僕には全く、見当も付かなかった。
「君は自分の意思で、このフェンスを乗り越えて、こっち側の危険地帯にやって来た。ここに来る理由なんて、私は一つしか知らないよ。風が気持ち良いからってフェンスを越える人はいないもの」
風で乱れる長い髪を押さえて、遠くを見ながら彼女は目を細めた。
つられて僕もそちらを見る。大きな夕日が山の向こうに沈んでいこうとしていた。
「君は、飛ばないの?」
そうして、彼女は三度目になる問いかけを、僕に投げかけて来た。
「………っ」
答えられない、答えられるわけが無い。
僕だって分からない。
飛ぼうと思ってここへ来た。
死のうと思ったつもりでいた。
でも、怖くて、死ぬのは怖くて動けない僕が居た。
「……あ、そうか。分かった分かった」
そんな僕の顔を覗き込んで、彼女は笑ってそう言うと、それが当たり前のように僕の手を掴んだ。
「え?」
「怖いんだ、怖いよね。こんな高いんだもん、怖くて当然か」
一人勝手に納得して頷く。
実際怖がっていたのは自分だから、何も言えない。
ただ、彼女の手は暖かくて、そしてとても大きかった。
握られた手は、心臓になったみたいにドキドキして、その柔らかさに顔が赤くなるのが分かった。
ほんの一瞬、ここが何処だったか忘れた。
「一人が怖いなら、私も一緒に飛んであげる――」
トンッと軽快な音。
僕の手を引いて、彼女は躊躇い無く空に躍り出ていた。
何が起きたのか、そんなことを考える暇も無い。
気が付いた時には、僕も彼女も足場の無い空に浮いていた。
「え?」
すぐにガクンと落下が始まる。
人間が宙に浮いていられる筈が無い。一瞬の浮遊感の後、絶望すら感じる速度で自由落下が開始された。
下から上へ流れる景色。一気に迫る地面。
僕は固く固く目を結んで、この後訪れるであろう落下の衝撃と、それに伴う想像すら出来ない激痛に備えた。
「よっと」
それは一緒に落ちている彼女の声。
その声と同時に、僕は暖かい温もりと柔らかい感触に包まれた。
迫る地面。迫る死の瞬間。僕の身体はこれ以上無いくらいに恐怖に震えていて、死ぬことがこんなに恐ろしいものなのかと、初めて知った。
先程『死』を確認したつもりでいたけれど、そんなもの何とはない、ただちょっと想像しただけだった。
あまりに圧倒的な死の予感は、僕自身に確定的な死を予感させた。
後悔してももう遅いのに、後悔せずにはいられなかった。
何で、僕は、死のうなんて愚かな事を、考えたんだろう?
もうダメだ。
永遠にすら感じられた僕の最期の時も、もうすぐそこまで迫っている。
そう思ったとき、恐る恐る開いた目に飛び込んできたのは、彼女の笑顔だった。
バスンッと大きな音を立てて、先程よりは幾分か硬い、でも柔らかな感触に包まれた。
それが、棒高飛びなどで使うエバーマットだと気付くには、少々の時間を要した。
どうやら、僕らの落下地点に、陸上部が練習で使うエバーマットが何枚も運ばれていたらしい。
それがどうしてかは、分からない。
生きている……?
あの絶望的な状況を超えて、僕は何故だか生きていた。
それは不思議を通り越して異常だった。
確かに死んだと思った。終わりだと思った。
後悔した。愚かなことをしたと心底後悔した。
そして、願った。
叶わぬと思いながらも、ただ必死に願った。
『死にたくない』と。
その願いすら、叶わないと諦めた。
なのに、何故か僕は生きていた。
「あっはっはぁ……死ぬかと思ったぁ……」
そう言いながら、彼女はきつく抱いていた僕をその腕から解放した。
そしてゆっくりと起き上がる。僕もそれに続いて起き上がった。
僕らの周りには、僕らを心配して覗き込む数人の学生。
何人かと彼女が合図を送っていたので、恐らくは彼女の友人たちなのだろう。
「あ、れ?」
気が付けば、僕の身体は小刻みに震えていた。
目の端からは涙が零れ、歯は落ち着き無くカチカチと音を立てて、心臓が思い出したようにドクンドクンと脈打った。
『生きていた』ことで一瞬忘れかけていた『死ぬ』ことの恐怖が、一気に膨れ上がって爆発した。
「うぅ……あ、あぁ」
言葉にならない声が、口から零れだす。
寒い訳でもないのに、震える身体を止めたくて、自分で自分の身体を丸まる様に抱きしめた。
それでも、震えは収まる事無く、涙は堰を切ったように溢れてきた。
ふっと、再び僕を温もりが包み込んでいた。
「怖かったね。でも、飛べたね」
頭の上から降り注ぐ声も、僕と同じで震えていた。
声だけじゃない、僕を抱きしめるその腕も、膝をつく足も、身体も、全部を彼女も震わしていた。
「君がどうしてあんな所に居たのか、その理由は私には分からない。でも、悩んで悩んであそこに立ったのは君の勇気だよ。それはやっぱり褒められるものじゃないけど、恥ずべきものでもないんだ。君が悩んで考えたすえの答えだから――」
震える手で、僕の頭を撫でてくれる。
震える声で、優しい声で、僕に話しかけてくれる。
そうだ、彼女だって怖かったんだ。
「そして、君は出来た。自分が決めた通りに、屋上から飛べた。どうだったかな、屋上から飛んだ感想は?」
『ん?』と、覗き込むように問いかけてくる彼女の目からも、涙が溢れていた。
そんな彼女の問いかけだが、僕は声も出なかった。
怖かった。本当に死ぬと思った。
「これと比べたら、もうどんな事だって怖くないよ。ね? 君が離れようとしたこの世界も、まだまだ捨てたもんじゃないと思う。きっとね。――だから、もう少し頑張ろう?」
そうして、もう一度、彼女は僕を強く抱きしめた。
震える腕で、ぽろぽろと涙を零しながら。
強く強く、僕を胸に抱きしめてくれた。
「でもね、自殺なんて、やっぱりやっちゃいけない事だから――」
僕を胸から引き剥がして、固く握った拳をコツンと僕のおでこに打ち付けて。
「馬鹿っ! もっと自分を大事にしなさい!! ……って、私が叱っておくね」
と小さく呟くように言った。
それは、どんな怒鳴り声よりも強く、僕の心を締め付けた。
「ごめんなさい……ごめんなざぁい」
「私も、ごわがっだよぉ~~っ!!」
僕につられてしまったのだろうか。
それとも、彼女も緊張の糸が切れたのだろうか。
段々と人が集まりだす中、僕と彼女はわんわんと、一緒になって大きな声を上げて泣きじゃくったのだった――。
後で彼女から聞いた話。
屋上に僕を見つけて、彼女は周囲に呼びかけてエバーマットを運ぶように頼んでから、屋上へと駆け上がったのだそうだ。
そして、地上の準備が終わるまで、僕と会話をして時間を稼ぎ、タイミングを見計らって飛び降りたのだという。
リハーサルなし、スタントなしの大アクションシーン。
本当に自分は死と隣り合わせの綱渡りをしていたのだと知って、そのとき改めて腰を抜かしたのだった。
僕と彼女のファーストコンタクト。
こんなありえない様なシチュエーションで果たされた、僕らの出会いだった。