見出し画像

改作

要約すると、
『改作にあまり良いイメージは無かったけど、やってみたら勉強になった。ただ演る場所は選ぶ』
という話です。
年末年始お暇でしたらお付き合いください。

古典落語が好きで、新作落語も好きで、怪談滑稽人情噺、
本の内容を落語にしたものでも、落語だったら何でも聴く。
けれども唯一「好き」と手放しで言えないのが、落語の改作。
なんというか、落語本来の面白さじゃないところで戦っているというか、落語をフリにしていてズルい感じがするというか、安易(?)というか……。

ただ、何をもって『改作』と呼ぶのかは自分でもちゃんと線引きができていなくて、
例えば古典のくすぐりを殆ど変えていたら、それは改作かというとそうじゃなくてアップデートという感じ。
師匠の代書屋を聴いて改作とは思わない。

先日ネタ下ろしした、白鳥版しじみ売り。
これは改作というか良くする為の再構築。

雲助師匠がやる、人情噺火焔太鼓。
火焔太鼓を人情噺の口調でやることで面白いというもので、これは改作。
だけど好き。
雲助師匠が好きだから、というところが大きいけれど、
師匠は人情噺火焔太鼓を滅多にやらないし、これを演る意図が分かるから好きなんだと思う。
仮に雲助師匠が頻繁にこれをやってたらちょっと嫌。

先日、講談の仲間との二人会で、ピカレスクもの(悪役が主役の根多)一席を含む二席ずつをやることになった。
特に講談は登場人物が何人もお亡くなりになるので、会全体がちょっと重くなりすぎるかな?
ということで、もう一席は何かふざけた噺がいいなと考えていた時に、ふと人情噺火焔太鼓を思い出し、ピカレスク版まんじゅう怖いをやってみることに。
『饅頭であん殺』を企てるところにピカレスクみを感じるし、ピカレスクものを皮肉ってる感じも良かったから。

それで本番、特に稽古もせずにまん怖をやんま久次のような口調で喋ったら結構ウケてしまった。
で、これは危ないなと思った。
まずコストパフォーマンスが良すぎる。
古典としてのまんじゅう怖いは自分なりに勉強しているとはいえ、特に稽古もせずただ口調を変えただけでウケたら、安易な方に逃げる癖がついて中毒になる。
落語本来の良さとかない。
得るものも少ない。

──とはいえ、たまたまかも。
たまたま黒酒を観に来た人に刺さっただけで、そうでない場所でやったらめちゃくちゃに蹴られてお終いじゃないか?
どっかで試したい。
自分のお客さんじゃない人がたくさんいて、無茶してもふざけても怒られないお祭りみたいなところはないか?

ありました。
12/30の毎年恒例白酒一門会。
年の瀬の秘密クラブ的落語会。
その年最後の師匠を聴きに来ているお客様が多く、
兄弟子達もいるので、黒酒が一人変なことをしていても大丈夫。
言ってしまえば、良くも悪くもここから黒酒の会に来る人はいない(それはそれで寂しい)。

で、ピカレスクみを強くして演ってみた結果、最初すごいウケて、途中大きく中弛みして、最後はギリギリ着地、みたいな。
時間をみたらマクラなし小噺なしで20分弱だった。
長い。
まずウケたことに驚いて、ところどころくすぐり抜けて、自分でやってても一層長く感じた。
せめて15分以内でないと、展開の少ない噺をあの口調でずっと聴いてられない。
よく、「新作落語は新作なんだからウケて当たり前」「新作は古典の三倍ウケなきゃいけない」なんて事を言う。
これは改作も同じだと思う。

上の方で「得るものも少ない」と書いた。
だけど、ちゃんと大勢の前でやったらそんなこともなく。
『展開の少ない噺をあの口調で聴いてられない』というのは、きっとピカレスクものをやっていく上で良い気付き。
その聴いてられない部分を地の部分で説明したり、仕草やらなんやらで一本調子にならないようにするのだと思う。
他に得たもので言うと、『噺の一番大事な部分は何か』を考えるきっかけ。
今回の場合、『くだらない事を大袈裟に、悪そうに喋っているのが滑稽』なのであって、それだけを大事にしていれば、もう5分くらい短くできた。
あと、まんじゅう怖いをそのまま本寸法でやっても中弛みするのだけれど、
今回ゆっくり大袈裟に演った事で、元々の形の駄目なところが見えたりもした。
また、話すテンポによって笑いの取り方を変えられることもわかった。
──と、改作にあまり良いイメージ無かったけれど、いざやってみたら、得るものだらけの大収穫だった。

ただ、それでも改作は賛否両論で、形は良くない。(個人の感想で改作やる人がみんなそうと言うわけじゃない)
改作を演る認識しづらいリスクは必ずある。
場所を選ぶ。
よくキレるが安易に抜いちゃいけない妖刀みたいなところがある。
誰が読んでるかわからないし野暮だけど「演る時は承知の上」という事で今回ここに書いておく。

いいなと思ったら応援しよう!