本屋で時間を止める
前々から何度か言っていたことですけれど、
昨今の文芸への失望が私には抑えられません。
しかし本屋にはよく行きます。
色々落ち着いたので、この間久しぶりに本屋に行ってきました。
売れてまっせと言わんばかりの平積みのものから、本に挟まれて擦り潰れそうなものまで。
題名の文字列をひたすら目で追って、今私が読むべき本はないかと探して回る。
目が留まると、手に取って目次だけパラっと見ます。
と、いうつもりでいたのだけど、たぶんそうではないと思い直した。
むしろ反対で、あらゆる本が自分の目に留まっている。
すべての本がこっちを向いていて、私のために書かれたかのような顔をしていて、非常に居心地が悪い。
以前は本屋が楽しくてたまらなかったんです。
あれもこれも、「この本読めば世界が広がるぞ!」と私を促してくるから。
今は、それがそんなに楽しくない。
あれもこれも、「この本読まなきゃ死ぬぞ!」とばかりに私を急き立ててくるから。
ただ、その中に、
こちらの力がふっと抜ける本、
「背中で語る」本、
「読者に理解してくれる人が1%でもいれば上々ですよ」といった本。
そういった本も一冊は見つかるもので、今となってはそっちのほうが楽しくなりました。
(厳密には楽しいというか、救われるとか言ったほうが正確な気がしますけれども)
本の背表紙や平積みの本の売り文句なんかを眺めていると、
過去の記述か、未来の予知か。
ほとんどの本がいずれかのように見えます。
過去と未来という点を置いてしまえば、その2点間の最短距離の線分として、
この私の「現在」が流れてしまうのは必然。
つまり、私はちょっとくらい立ち止まって、現在をちゃんと生きてみたい。
結果、私がこの時買ったのは以下の二冊。
・山折哲雄『生老病死』
株式会社KADOKAWA 2021年初版
・北村薫『月の砂漠をさばさばと』
新潮社 平成十四年発行 平成二十七年六刷
結果的に、大正解でありました。
『生老病死』は、エッセイ集。
生きるのってしんどいことばっかりです。若干25歳の私にだってそれはわかる。
執筆当時90歳の宗教哲学者から見える世界の、
なんと趣深いこと。
しんどいしんどいと言いながらも生きてさえいれば、こんな感性で世界を見れるようになるかもしれない。
打算的な感想ですが、「人生悪くないかも」と思わされるのです。
『月の砂漠をさばさばと』は小説ですが、起承転結があるんだかないんだか。
昔読んだことがあって、好きだったこともすっかり忘れていた本です。
買ってすぐに読んでしまった。
9歳の女の子のさきちゃんとそのお母さんを中心とした短編ですが、
中でも私は「川の蛇口」という節が好きです。
十代の時に読んでもわからなかった良さがあります。
さきちゃんよりお母さんに年が近づいたからだと思いますが、
さっちゃんの一挙手一投足が愛おしいし、大人の凝り固まった物の見方を開いてくれるような感じがします。
書いてみて気がついたことですが、
過去と未来っぽい本たちが嫌だと言っておきながら、
買った本には「幼年」と「老年」を見て取っているんですね私は。
第三者的に見ることのできる過去と未来ではないか。