画面の弾幕(そら)を超えて、君に会う。 第1話
1
4月の中旬。表通りは学校帰りの学生で賑わっていた。
表通りにはゲームセンターがあった。入口付近のクレーンゲームコーナーには何人か学生がいた。そのさらに奥、忘れ去られたような薄暗いビデオゲームコーナーに、二人の女子高生がいた。
一人はブラウン管筐体の一つでシューティングゲームを遊んでいた。彼女の艶やかな黒髪は画面の青白い光に照らされていた。そしてその後ろにもう一人、彼女を陰から見守る少女――敷島マキがいた。レトロゲームコーナーの空気は冷たかった。
―――
2週間前。
うららかな春の日差しが街を柔らかく包んでいた。猪上市は、日本海側に面するN県にある地方都市である。今年は珍しく、4月の初旬から桜が咲いていた。
猪上高校の校門前で桜が咲いていた。はらりと花びらが舞い落ちる。その日の猪上高校では入学式が執り行われていた。
春の日差しが差し込む体育館。壁は紅白幕で彩られていた。中央の花道沿いのパイプ椅子に座る敷島マキは、今日からこの猪上高校に通うことになる一人だ。着慣れないブレザーが身体にギチギチと食い込む。すがすがしい入学式日和の青空とは裏腹に、マキの顔はどんよりしていた。
この学校の生徒会長が歓迎の言葉を壇上で話していた。マキは浮かない顔で生徒会長の話をぼんやり聞いていた。話の内容が右から左に通り抜けていった。
生徒会長はスピーチを終え、原稿を懐にしまって壇上から降りていった。
『以上、生徒会長からの歓迎の挨拶でした。続きまして、新入生代表の挨拶です。金ヶ崎智代さん、お願いします』
「はい」という澄んだ声が後ろから聞こえた。声の主がツカツカと花道を歩いてくる。足音がだんだんこちらに近づいてくる。
なんだろう、この存在感。マキの背中がゾクゾクしてくる。
そして次の瞬間、思わずマキは花道の方を振り向いてしまった。長い黒髪と潤った唇が、窓からの逆光で透き通るように白い光に縁取られていた。そして瞳はガラス細工のように澄んでいた。マキは、金ヶ崎智代という人間の横顔にハッと息を吞んだ。
金ヶ崎のなびく黒髪が、マキの頬をそっと掠めた。
入学式の帰り道。マキは相変わらず浮かない顔でため息を吐いていた。
「どうしたの、そんなしょげた顔しちゃって」幼馴染の日野あかりが声を掛けてきた。数少ない、マキと同じ中学から入ってきた子だ。「せっかくの入学式なのにさ、もっと楽しくいこうよ」
「いいよねー、あかりはいつも楽しそうで」
「なによ、めでたい日なんだから楽しくて当然でしょ」あかりは少しムスッとした。
「前から考えてたんだけどさ、高校になると授業の時間が増えるじゃん。このままどんどん人生が窮屈になるんじゃないかって」
「なぁに心配してんのよ。そういうのは杞憂って言うのよ」あかりがマキの肩を叩く。「普通にやってればなんとかなるって。それに新しい出会いとかきっとあるでしょ」
「なんとかなる、かぁ」
いろいろ考えあぐねるマキ。その横からあかりが顔を覗き込んできた。
「そういえばマキさ、入学式の時、金ヶ崎智代に夢中だったじゃん?」
「えっ、そうだったっけ」
「スピーチの時もずっと見とれていたじゃん?」
マキは入学式を思い返した。金ヶ崎が傍を通ったあの一瞬、自分の心が少し揺れ動いた気がした。きっと気のせいだ。式が退屈だったから特異な同級生に好奇心が湧いただけに違いない。
「美人だからねーあの子。中学の時から結構モテたみたいだよ。いろんな男の子に告白されて、全部断ったらしいよ」
「ふーん、そう」マキは他人の噂に興味がなかった。
マキとあかりは同じ駅に向かう電車に乗った。二人は30分ほど電車に揺られた。駅を降りる頃にはすっかり夕焼けが深くなっていた。マキは駅前であかりと別れ、駐輪場の自転車を引き上げて漕ぎ出した。
ぽつぽつと散在する住宅街と、夕焼けに染まる田んぼ。春の夕暮れ時はまだ寒い。ペダルを踏む度、冷たい風がマキの頬に刺さる。
そしてマキは家に着いた。夕飯を食べ、風呂に入り、バラエティ番組を見て、そして二階の自室のベッドに寝転がる。
いつの日からか、これがずっと日常になっている。部活にも入らず、他に趣味と呼べるものも特になかった。強いて言うならば、テレビと寝転ぶことしか楽しみがない。
マキはベッドで仰向けになりながら、天井の蛍光灯をぼんやりと眺める。
明日から始まる新しい生活。不安に思うのは誰だって一緒だ。でも少しずつ自分の時間が削られていくのはちょっと嫌だった。楽しいことが何も増えないままなら尚更。
「楽しいことかぁ」
ここ最近、楽しいと思えることってあったっけ――。
マキは翌日からの授業に備えて、電気を消して早めに寝た。
翌日から授業が始まった。授業の内容は簡単なもので、それほど負担にはならなかった。今までと変わらず、家に帰り、夕食と風呂を済ませ、テレビを見て寝る。
その次の日も授業をやり過ごし、家に帰り、夕食と風呂を済ませ、テレビを見て寝る。
そういう日が2週間ほど続いた。中学の時と何も変わらなかった。あかりの言う通り、身体がだんだん慣れていった。普通に過ごしていれば何事も日常に溶け込むものだ。
その翌朝。マキは目覚まし時計の音で起きた。階段を降り、顔を洗って朝食を食べる。制服に着替えて身だしなみを鏡でチェックする。そして玄関に出ようとした。
「マキ」母に呼ばれた。
「どうしたの」
「マキ、高校入ってからいっつも直で家に帰ってるでしょ?」
「まあ、そうだけど」
母はマキに千円札を手渡した。
「これ――」
「もう高校生なんだし、たまには寄り道でもしてらっしゃい。冒険も大事よ?」
母はマキに微笑んだ。
寄り道、そういえば一度もしたことが無かった。そういう発想すら無かった。母の気遣いは少し嬉しかった。
「あ、ありがとう」
マキは財布に千円札をしまい、家を跡にした。
2
その日の放課後。マキは駅に直行せず、繁華街を少し散策することにした。街にはたこ焼き屋やドーナツ屋、たい焼き屋などが立ち並んでいた。同じ学校の学生たちが美味しそうにそれらを食べていた。
今までただの背景として素通りしていた街並みが、これほど楽しそうなものに溢れているとは。
中学まで登下校中の寄り道は校則で禁止されていたが、そもそもマキに寄り道という発想がなかった。家の周りに遊ぶ場所などなかったからだ。しいて言えば、ガムが売ってる寂れたタバコ屋くらいしか無かった。
一方、高校では寄り道は禁止されていない。それどころか、「もう高校生だから」と推奨される空気すらある。少し大人として認められたということだろうか。マキは少し気持ちが大きくなった。
色んな食べ物屋を眺めていたら、お腹が減ってきた。マキはたい焼きを買って食べた。授業上がりの買い食いは美味しい。餡子の甘さが頭を使った後の身体に染みる。今まで知らなかった禁断の味を知ってしまった。
マキの封印されていた好奇心が少しずつ解けてゆく。買い食いよりもっと「いけないこと」がしたくなってきた。
マキはさらに街を散策する。目に付いたのはゲームセンター。メーカー直営の店だ。入口付近のクレーンゲームコーナーでは、制服姿の学生たちが何人かいた。享楽的で、所謂「高校デビュー」にはうってつけの場所だ。
よし、ここにしよう。マキは頷いた。財布の中身を確認する。たい焼きのお釣りで出来た百円玉を握りしめ、クレーンゲームコーナーの方へ飛び込んだ。
クレーンゲームの景品は様々だった。マスコットのぬいぐるみ、お菓子の詰め合わせ、安っぽい家電製品、エトセトラ。
マキは景品の品定めをする。お菓子なら家族に喜ばれそうだ。そうだ、お菓子にしよう。
マキがクレーンゲームに100円玉を入れようとしたその時だった。
反対側の裏口から同じ制服の女子が入ってくるのが見えた。艶やかで黒い長髪。あの学年トップの優等生、金ヶ崎智代だ。金ヶ崎はこちらのコーナーを意に介さず、さらに奥のコーナーへと姿を消していった。
金ヶ崎はマキとは別クラスの学生だが、いつも一人で黙々と文庫本を読み、堅物そうで近寄りがたいオーラを出している。初日のような噂はもう話題にならなくなったが、それでも金ヶ崎は学年で一目置かれていた。そんな彼女がなぜここに。
他の人たちは彼女に気付いていないようだった。マキはこっそり金ヶ崎の跡をつけた。
金ヶ崎が向かった先は最奥部の薄暗いビデオゲームコーナー。少し古いビデオゲーム筐体が5台、忘れ去られたように並んでいた。表に比べて空気が冷たく重い。
マキは陰から金ヶ崎を観察した。金ヶ崎が座ったのは、縦スクロールシューティングの台だった。画面には「ケツイ」という妙なタイトルが書かれていた。
彼女がコインを入れると、それまで無音だった筐体から子気味よい効果音が飛び出した。数回ボタンを押すと、ゲームが始まった。
オレンジ色の自機は画面を埋め尽くす弾幕をかき分け、画面上部に突き進み、大量のアイテムを貪欲に取ってゆく。流れるような淀みない手捌き。それはゲームを知らないマキでも分かった。
ゲームに取り憑かれている金ヶ崎の後姿はブラウン管の薄明りに青白く照らされていた。それはまるで、神憑りの巫女のように神秘的だった。
開始から約20分が経過した。ここまでノーミス。舞台は最終局面。金ヶ崎が操る自機は敵本拠地の地下格納庫へ突入を始める。
次々と迫りくる大型機。不規則に飛び交う弾幕。次の瞬間、自機はリズムを乱した。そしてここでミスしてしまった。神憑りの儀式はここで途切れた。
「ちっ」
金ヶ崎が小さく舌打ちした。それが耳に入り、マキの精神は現実に引き戻された。
そのまま金ヶ崎は残りの自機を敵の大群に突っ込ませ、ゲームをわざと終わらせた。
暗転した画面に「GAME OVER」の文字が浮かぶ。金ヶ崎はランキング画面でAAAと連打し、席を跡にした。
マキは思わず陰に引っ込もうとするが間に合わず、金ヶ崎と目が合ってしまった。
「あ……」マキの心臓が高鳴った。二人の時間が一瞬凍った。
「これ、順番待ってたの?」智代が沈黙を破って聞く。
「う、うん」マキは質問に思わず頷いてしまった。
「じゃあ、私のクレジット使ってもいいからさ。いいよ」
マキは迂闊に頷いたばかりに智代に促され、席に座らされた。ゴソゴソと財布の100円玉を探し始める。
「あ、真ん中のボタンを押せば始まるよ」
言われるままスタートボタンを押すと、唐突に大音量のBGMと共にゲームが始まった。一瞬、動揺する。心の準備もできないまま梯子を外された気分だった。
金ヶ崎の目線が背中に突き刺さる。「実は私もゲームマニアでして」と取り繕う腕前も、当然マキは持ち合わせていなかった。もはや後戻りはできない。
レバーを握るマキの掌は汗ばんでいた。画面上の自機は覚束ない足取りで敵陣へと飛んで行った。
【続く】