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2023年のまとめ(映画編)

 今年は13作品くらい劇場で映画を見た気がする。というわけでその中からいくつかピックアップしよう。

ジョン・ウィック:コンセクエンス


 キアヌが人をころすことでお馴染みのシリーズだが、本作は体幹ゲージやバイオのクリムゾンヘッドを思わせるゲーム的なアクションが特徴的で、スリリングかつ華のあるアクションがスクリーン上で繰り広げられた。
 カラテで体幹ゲージを削がないと銃が致命傷にならない世界なので過去作以上に真正面で銃を撃ちまくる。さらに死体人口密度の高い本作にクリムゾンヘッド制を混ぜ込むのは本来二日酔いのあほがやる所業だが、そのお陰でキアヌの数々のオーバーキルに必然性と説得力を持たせてくれた。
(※クリムゾンヘッド制…ゾンビをヘッドショットするか死体を焼却しないと強化されて生き返るシステムのこと)

 さらに前作でビミョーだったオモシロニッポン描写は段違いに進化を遂げ、フリークの心を掴むのに十二分な出来栄えとなった。少なくとも俺は真田とキアヌが語らうシーンで銘酒「山崎25年」が出てきた時にその本気度を悟った。
 映画史に残るであろうドニー・イェンと真田広之の一騎打ちも見どころだが、モブの日本人役者たちのキレッキレな殺陣に「こんな人が同郷にいたのか!」と舌を巻いてしまったものだ。

 ハリウッドというのは世界中から流れる文化の川が行き着く大海のようなものである。そうしたカオスに入り乱れた諸文化を、統一した暴力トーンにまとめ上げたのがこの「ジョン・ウィック:コンセクエンス」だ。

ミッション:インポッシブル/デッドレコニング PART ONE

 今回がシリーズ最終章ということだが、スパイ版「トップガン マーヴェリック」を期待して見に行くと間違いなくガッカリする作品だ。というよりも予告編で過度に期待度を挙げすぎた自分が悪かったというべきか。

 今回のラスボスはフェイクニュースを操るAIなのだが、敵も味方もAIを「アレ」とか「ソレ」でしか呼ばないので会話がふわふわしており、霧に向かってシャドーボクシングしているような気分になってくる。
 おそらく最近のフェイクニュース騒ぎを見てスタッフがいっちょ噛みしようとしたのだろうが、MIらしからぬ「スマホに苦戦するオッサン」臭を振りまくこととなり、結果的にダダ滑りすることになってしまった。
 思いつきでメタルギアの愛国者達的な要素を追加するとグダグダになるという、シナリオ制作の反面教師にもなったことだろう。

 しかしアクションシーンは非常に素晴らしいのだ。実際、映画館でトムクルーズが崖からダイブする予告編を見る度に胸を踊らせ、どんどんハードルが高くなっていったのだ。しかしその落差は上記に記したとおりである。
 おそらく人間は予告編に「過度な期待」を抱いている時点で、無意識下で映像を素材にした別作品の創作を始めているのだろう。

君たちはどう生きるか

 満を持して登場した宮崎駿の新作は、さながら監督がトリップして脳内ChatGPTに身を任せて吐き出した支離滅裂な脚本ではあったが、暗い劇場で見ると白昼夢を見ているような心地よさに包まれる作品だった。
 当時の俺は映画を見る際に脚本構成が気になりすぎて没頭できないという悩みを抱えていたが、本作の幻想的な映像体験はスーッと肩の力を取り去ってくれ、上映終了後は不思議と清々しい気分になれた。

 おそらく金曜ロードショーで見ていたら意味不明すぎて切り捨てていたかもしれないので、本作を映画館で見れたことは非常に幸運だった。

ザ・クリエイター 創造者

 本作はいわゆる「A・I」や「ブレードランナー」に続く「ロボットいじめはやめようよ」系映画であり、大筋はお馴染みのAIvs人間の構図を取っている。しかし戦場は宇宙戦艦やホバーバイクが飛び交うSF大戦争ではなく、ベトナム戦争を思わせる血と硝煙に満ちた泥臭いゲリラ戦が舞台となっている。

 この映画には人間そっくりのヒューマノイド型と異型頭アンドロイドの2種類が出てくるのだが、とにかく人間臭さが生々しい。三度笠を被った農民ゲリラヒューマノイドが目をカッ開いて死ぬ様には背筋が震えたし、場末のバーでシーシャを嗜む異型頭アンドロイドのハードボイルドに惚れてしまった。
 極めつけはロボットたちが袈裟を着て念仏を唱えているシーンだ。彼らは仲間の死を弔い、浄土の冥福を祈っているのだ。AIとアニミズムの融合はアニメなどでよく語られていたが、こんな直球な足し算描写は日本人には思いつかないだろう。
 また、この手のAIモノでお馴染みの「ロボット三原則」らしき要素も存在するのだが、その回収の仕方も斬新なのでSFファンはネタバレせずに見てほしい。

 登場するガジェットについても触れておきたい。本作の小道具は独自のレトロフューチャー路線を走っており、現実のスマホなどを想起させるものが一切出てこない。事実、本作を撮影したギャレス監督も、メカデザインは近年のアップル製品ではなく昭和のソニーを参考にしたとインタビューで述べていた。
 しかも単なる懐古趣味ではなく、独特の進化を遂げたスタイリッシュなデザインに仕上がっているのでマニアなら必見だ。

 なお、本作にはあの渡辺謙も出演しているのだが、配給会社はお馴染みの「〇〇出演!」というキャッチコピーをなぜか積極的に使うことはなかった。

春画先生

 春画を題材に、近代日本が封印してきたプリミティブな文化・風俗を見直すことがテーマとなっている本作。そんなことを登場人物たちが真面目くさった顔で議論しながら乱痴気騒ぎを起こすというカオスなエネルギーに満ちた作品だ。

 だがそれ以上に本作の功績は、それまで処罰の対象だった無修正春画を全国の劇場で大っぴらに見せつけることを政府連中に認めさせたことだ。フィクションの安全圏から石を投げるのではなく、リアルで日本社会の支配体制をブン殴るその姿勢に俺は射精した。

 昼行灯を装いながらその裏で世界をギラリと睨みつけるという、ある意味エンタメのあるべき姿を見せてくれた。
 本作は日本映画で最も過激な弾丸の1つと言っていいだろう。

ゴジラ-1.0

 今回のゴジラは純粋悪そのものとして描かれている。それまでのゴジラは人類文明の被害者として描かれており、街を破壊するシーンや退治されるラストシーンにもどこか哀愁を漂わせていた。
 ところが今回のゴジラは核実験で変異する前から人類に牙を向けており、核パワーで覚醒してからは明らかに人類を苦しめようと東京を壊滅に追い込むのである。その姿には同情の余地など一切なく、すべてを失った主人公と共にあの巨大な影に恐怖と憤怒を覚えることだろう。
 今回のゴジラは前作「シン・ゴジラ」に続く新たなゴジラ像(「センス・オブ・ゴジワンダー」とでも呼ぼう)を見せてくれたわけだ。

 本作はまた、山崎貴監督に旧日本軍を描かせたら世界に右に出る者はいないということを改めて思い知らされる機会となった。監督のフリークっぷりは作中で遺憾なく発揮されているのだが、ゴジラをダシに自慰行為に走ることなく、必然性とメッセージ性を持たせて我々に魅せてくれた。
 重巡高雄が沈みながらもゴジラに砲塔を向ける様にはその「霊圧」で男泣きを誘い、試作機・震電は新たな日本社会を象徴するメタファーとして大空に翔び立った。
 山崎監督は無理して最大公約数的な映画を撮るよりも、一点突破で勝負したほうが自然体で感動できるものが撮れるようだ。

 今回のゴジラは「初代」と同じ終戦直後が舞台なのだが、公開前に聞いて俺は正直ゴジ泣き云々より不安を覚えた。なにしろ初代はスタッフ全員が被戦者であり、リアルタイムでないと撮れない神聖不可侵のリアルさがあったからだ。
 しかしいざ見てみると、この「ゴジラ-1.0」はさまざまな厄災を経た現代でなければ作れないシナリオであることが分かった。かの大戦を媒体に今の日本を俯瞰し、こんな世界でも俺たちにも何か出来ることがあるはずだと勇気づけてくれるのだ。

 ところでゴジラと言えば、今度ハリウッドではふたたびゴジラとコングが共演するようだ。悪いゴジラと良いゴジラを交互に見れるのは贅沢極まりないことだが、温度差で風邪を引かないよう気をつけたいところだ。

鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎

 このゲゲゲを単なる本編の延長線やスピンオフだと思って見逃すことは大きな損失と言っていい。「でもやっぱ鬼太郎だから子供向けっぽそうだし、最近流行りの『大人も考えさられる系』でしょ?」と思っているなら、ポスター右下の「PG-12」を見てから判断しろ。
 本作のメインキャラである男性2人はそれなりにリアル寄りの画風なので、コミカルな画風に抵抗のある人も先入観念を捨てて見てほしい。

 今回は昭和が舞台なので、作中の男どもはみんなタバコを吸っている。会社だろうと電車だろうとみんな美味そうにタバコを吸っているし、主人公は自然豊かな田園風景でポイ捨てを平気でするくらいだ。俺はリアルでタバコを吸わないし禁忌にすら思っている人間だが、だからこそフィクションの喫煙シーンにはアウトローな魅力を覚えるのだ。

 本作は社会の暴力構造に真正面から胸ぐらを掴む映画だ。この映画もまた、前述のゴジラと同じく昭和を舞台とした作品なのだが、こちらは理不尽への反骨精神と未来へのミーム継承が主なテーマとなっている。
 この映画は、筆者が永らくフィクションに求めてきた「何か」にピタリと答えてくれた唯一の作品だ。この作品にようやく出会えたことで長旅に一区切りが付いた気分である。

終わりに

 まずハリウッド映画だが、何故かは知らないがオモシロニッポンを取り入れる作品が妙に増えた気がする。しかも解像度をさらに高めて。
 俺はサイバーパンクが好きなのでこうしたニッポン描写にはうるさい方なのだが、10年くらい前までは中華とごちゃ混ぜにする監督も少なくなかったと記憶している。
 しかし「ジョン・ウィック」や「ザ・クリエイター」を見れば分かる通り、最近のハリウッドのニッポン描写は、背筋の伸びるワビサビを感じられるものへと進化している。
 特にジョン・ウィックはニッポンと中華をどちらもリスペクトしつつ、高次元に融合した見事なアートを見せてくれた。

 そして何より国内映画だが、日本社会の棚卸しとも呼べるような作品が相次いで登場した。明治以降、大切なものを犠牲にし続けて発展を続けた日本だが、戦後も振り返ることを後回しにして走り続けた。しかし今、ようやくその時が来たのだと「ゲゲゲの謎」を見て確信した。
 これら棚卸しの作品たちは単なる即席の社会風刺ではなく、物事の本質をしっかり突いた普遍的なメッセージを宿しているのだ。そのため違う文化圏の人が見ても思い当たる節があるだろうし、30年後の人が見ても胸に刺さることだろう。

 私の大学の恩師はよく講義で「本物の芸術」をたびたび口にしていた。それと同時に「今の日本はモノに恵まれているせいで心が貧しいことにすら気付いていない」とよく語っていた。
 しかし2020年のウイルス禍を境目に、この国は一気にニセモノ臭くなってしまった。これらの映画が高く評価されることは、人々が「本物」に飢えていることに気付き始めた証左なのかもしれない。

 本物のエンタメとは現実逃避や気休めにあらず。見る者に悟りの境地を示す、真実の啓示である。なぜ人々はエンタメを追い求めるのか?それは無意識に世界の真理を追い求めているからである。

 ここ数年、世界は流血と抑圧だらけで一気にシケたものになったが、今年の作品群を見ると微かな希望を感じざるを得ない。エンターテイメントは慰めのためではなく、人類が賢い方向に進むべく必要とされているのだ。
 来年もまた、人類を新たなフロンティアに導いてくれる作品が出ることを願う。

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