【後半】ゲーデザインは本当に遊びのデザインなのか【スポーツからゲームを考える】
こんにちは。tezumozuです。
この前、新作のゲームを公開しました。
前作と同様PC向けのゲームですが、今作は一応スマートフォンでも遊べる仕様になっております。もしよかったら遊んでみてください。
さて、今回は前回の続きです。
前回は従来の「ゲーム」を「遊びの活動」と捉える考え方ではeスポーツにおけるプロの試合など「仕事の活動」としての「ゲーム」が「ゲーム」と呼べなくなってしまうという矛盾について考察しました。
そして「ゲームは遊びである」という命題の捉え方を見直すことで、この矛盾を一度、解消することができました。
ところで、ゲームデザインも一般的には従来の「ゲーム」の捉え方に基づき、「遊びの活動」をデザインする事であると捉えられます。
しかし、前回考察したようにゲームを「遊びの活動」として捉える限り、「仕事の活動としてのゲーム」をはじめとした「遊びの活動」以外の「ゲーム」を「ゲーム」として扱うことができなくなってしまいます。
そこで、今回は「仕事の活動としてのゲーム」も扱えるより柔軟なゲームの捉え方を再度考察し、その捉え方を元に、ゲームデザインをより広い概念として捉え直すことを目指します。
今回も前回同様、スポーツ研究の論文を参考にします。
「実体的な概念」としての「ゲーム」
前回、私は「ゲームは遊びの活動である」という捉え方では、eスポーツをはじめとした「仕事の活動」としてプレイされるゲームが「ゲーム」と呼べなくなるという矛盾について考察しました。
そして、プロスポーツにおけるスポーツと遊戯活動の考察を参考に、「ゲームは遊びである」という命題を「ゲームは遊戯性(魔法円を生み出す性質)を持っている」と解釈することで「仕事の活動としてのゲーム」も「ゲーム」として捉えることができ、一連の矛盾に対する回答を得ることができました。
これにより、「同一のゲーム」であっても、仕事としてプレイ場合と遊びとしてプレイされる場合とで、「ゲーム」か否か変化してしまうという問題も解消しました。
つまり、例えば「ストリートファイター6」であれば、プロがプレイする「ストリートファイター6」は仕事としてゲームをプレイするため、その活動は「仕事の活動」ということになり、従来の捉え方では「仕事の活動」は遊びではないことから「ゲーム」とは呼べませんでしたが、前回考察した解釈では、遊びとしてプレイする場合と同じように「ゲーム」であると言えるのです。
また、どちらの場合の「ストリートファイター6」でも一般的に考えればどちらも「同じゲームである」と認識されるため、「仕事としてプレイされるゲーム」を「ゲームではない」とする違和感のある従来の捉え方から、そうした一般的な認識に近い、プレイされる状況が違うゲーム同士にある種の " 同一性 " を見いだせる捉え方ができるようになりました。
ところで、今指摘したように、一般的な認識においては、1つのゲームがどのような情況でプレイされようとも、基本的に「同一のゲーム」であると考えられます。
スポーツであれば、部活動やサークルなどでプレイする場合であってもプロの選手がプレイする場合であっても同じスポーツであると認識できますし、ボードゲームやデジタルゲームであっても競技種目としてプレイされようが、遊びとしてプレイされようが、やはり、同じゲームとして認識されます。
これは競技性の薄いゲームにおいても同じであり、例えば「あつまれどうぶつの森」であれば、住民とのロールプレイを楽しもうが、様々な方法でお金稼ぎをして楽しもうが、マイデザインや島クリエイトで自己表現的に楽しもうが、借金返済RTA(リアルタイムアタック)をしようが、基本的に誰がどのような情況でどのようにプレイしようとも「あつまどうぶつの森」というゲーム自体には変化はなく、同じゲームで遊んでいると考えられます。
スポーツ研究ではスポーツ競技における同様の性質を元に樋口(1987)によってスポーツが「実体的な概念」として捉えられています。
「実体的」とは、いわば、対象が「存在している」と捉える考え方です。
抽象的でわかりにくいですが、実際に物で考えるとわかりやすいかもしれません。
多分皆さんはこのnoteをスマホかPCで見ていると思います。
そのお手元の機器を旅行や引っ越しなどでどこかへ移動させることを考えてみましょう。
正直、場所はどこでもよくて、別の部屋に移動させるだけでもいいのですが、きっと移動させた先と前とでその機器自体に大きな変化はないと思います。
これは当たり前ではありますが、「移動先の場所」と「機器」が独立して「存在している」からです。
これと同じように、先ほどの引用では「野球」もどんな場所や環境でプレイされようとも「野球」であると認識できるのは「野球」が他の物事と独立して「存在している」からであり、「スポーツ」も「実体的な概念」として捉えられると主張しているのです。
こうした観点を踏まえると、「ゲーム」も同様に客観的な構造の強さを備えており、「実体的な概念」として捉えることができそうです。
そして、その外延は普段私たちが「ゲーム」として捉える「様々なゲームタイトル」です。
このように考えることで、今まで当たり前であった「ゲーム」と「遊びの活動」との関係を一度切り離して「ゲーム」を捉えることができるようになります。
また、従来では捉えきれなかった「仕事の活動としてのゲーム」も、その活動目的とは関係なく、単純な「実体的な概念」として「遊びの活動としてのゲーム」と同質に捉えられるようになり、より包括して「ゲーム」を扱えるようになります。
「実体的な概念としてのゲーム」と「遊びの活動としてのゲーム」の関係
先ほど、新たに「ゲーム」を「実体的な概念としてのゲーム」という、より広い概念として考えることで、活動目的の違うゲーム同士を同質のものとして扱い、より包括的に「ゲーム」を捉えられるようになりました。
それでは、次に「実体的な概念としてのゲーム」への考察を深めるために、従来の捉え方である「遊びの活動としてのゲーム」との関係を考察していきます。
従来、「遊びの活動としてのゲーム」は「遊びと呼ばれる遊戯活動の一部」であると考えられ、様々な遊戯活動の一部として認識されていました。
そして、従来の「遊びの活動としてのゲーム」が示す外延も「実体的な概念としてのゲーム」と同様、「様々なゲームタイトル」であると考えられます。
また、「実体的な概念としてのゲーム」は「仕事の活動としてのゲーム」も含めることから、より広い概念であるため、「遊びの活動としてのゲーム」はその部分集合、つまり下位概念であると考えられます。
さらに、「仕事の活動としてのゲーム」も同様に「実体的な概念としてのゲーム」の下位概念として考えると、「遊びの活動」は「遊び」の定義上「仕事の活動」になりえないことから、それぞれは以下のような関係になると考えられます。
しかし、この図は今までの考察を踏まえると、おかしな部分がいくつも存在しています。
まず、1つのゲームが「遊びの活動」としても「仕事の活動」としてもプレイされることを考えると「遊びの活動としてのゲーム」と「仕事の活動としてのゲーム」との間に共通要素がないのは不自然です。
例えば「ストリートファイター6」であれば、プロの選手が仕事としてプレイする場合もあれば、一般のプレイヤーが遊びとしてプレイする場合もあります。
つまり、「遊びの活動としてのゲーム」と「仕事の活動としてのゲーム」の外延を「実体的な概念としてのゲーム」と同様の「様々なゲーム」タイトルとして捉えた場合、この二つの下位概念に共通要素が生まれることになります。
しかし、これは先ほど引用した「遊び」の定義と矛盾してしまいます。
また、近年のゲームプレイのライブ配信やRTAなどのパフォーマンス的なゲームプレイも考慮すると、すべてのゲームが「遊びの活動」としても「仕事の活動」としてもプレイされる可能性が見いだせるため、「遊びの活動としてのゲーム」および「仕事の活動活動としてのゲーム」の集合が「実体的な概念としてのゲーム」と等しい集合になってしまいます。
これは「遊びの活動としてのゲーム」や「仕事の活動としてのゲーム」といった概念を「実体的な概念としてのゲーム」の下位概念とする、そもそもの考え方とも矛盾してしまいます。
このことから、「遊びの活動としてのゲーム」や「仕事の活動としてのゲーム」といった概念は「実体的な概念としてのゲーム」の下位概念とは言えない一方で、「遊びの定義」から考えるとそれぞれの集合は「活動目的の違い」というゲームの「あり方」における明確な領域を持っていると考えられます。
つまり、従来の「遊びの活動としてのゲーム」や「仕事の活動としてのゲーム」といった「ゲーム」の概念は「実体的な概念としてのゲーム」とは別の範疇であり、「実体的な概念としてのゲーム」と「遊びの活動としてのゲーム」は類種関係ではなと考えられ、これにより「実体的な概念としてのゲーム」が従来の「ゲーム」の捉え方とはまた別の捉え方であることが見えてきます。
「ゲーム」における2つの範疇
前節では従来の捉え方である「遊びの活動としてのゲーム」が「実体的な概念としてのゲーム」とは違う概念であることが見えてきました。
そこで、今度は従来の「遊びの活動としてのゲーム」がどういった概念なのか考察を深めていきたいと思います。
「遊びの活動としてのゲーム」のように活動目的によってゲームを捉える概念として「プロ(アマ)スポーツ」があります。
また、スポーツ研究では「プロスポーツ」の概念も「遊びの活動としてのゲーム」と同様に競技種目を外延とした「実体的な概念におけるスポーツ」と類種関係がないことが考察されています。
こうした「プロスポーツ」に対して高岡 ( 2013 ) は「実体的な概念としてのスポーツ」との関係を以下のように考察しています。
また、こうした「スポーツと人々の関係性」を踏まえた上で、高岡はスポーツを2つの範疇で捉えられるとを主張しました。
「実体的な概念としてのゲーム」において考察した際、私はどのようにプレイされようとも「ゲーム」自体に変化がなく、客観的な構造の強さがあることを指摘しました。
これは逆を言えば、「遊びの活動としてのゲーム」や「仕事の活動としてのゲーム」の違いは、「実体的な概念としてのゲーム」に変化がないことから、スポーツと同様にゲームにおける人々のかかわり方の違いであると考えられます。
例えば「ストリートファイター6」であれば、プレイヤーが「プロスポーツ」のように仕事としてかかわることで「仕事の活動」になり、プレイヤーが趣味としてかかわることで「遊びの活動」となります。
ということは、ゲームもスポーツと同様に、これらの概念は「実体的な概念としてのゲーム」と「人々」との「関係性」を表した概念であると考察できます。
つまり、これら従来の「ゲーム」の捉え方は「ゲームと人々との関係性」という概念における下位概念であると捉えられるのです。
これにより、ゲームもスポーツと同様に2つの範疇において捉えることができるようになります。
一つ目は最初に考察した「実体的な概念としてのゲーム」であり、「様々なゲームタイトル」の集合としての「ゲーム」です。
二つ目は従来の捉え方に近い「ゲームと人々の関係性」であり、「実体的な概念のゲーム」と「人」との間に生まれる「関係概念」としての「ゲーム」です。
このように考えると、先ほどの「実体的な概念としてのゲーム」が「遊びの活動としてのゲーム」や「仕事の活動としてのゲーム」とは違う概念であるという考察とも辻褄が合います。
二つの範疇とゲームデザイン
さて、ここまで「ゲーム」の捉え方について考察をしてきました。
ここからは、先ほどの「ゲーム」の捉え方を元にゲームデザインの考察へと話を進めていきたいと思います。
ゲームデザインは様々な図式で分析されてきました。
ルールズ・オブ・プレイでは「ルール」「遊び」「文化」という3つの大きな図式によって「ゲーム」を分解し、ゲームデザインを考察しています。
ゲームデザインバイブルは113のレンズによってゲームデザインの重要なポイントをまとめています。
そこで、今回は先ほど考察したゲームにおける「2つの範疇」をベースに、2つのゲームデザインの領域を考察してまとめ、それぞれ提案したいと思います。
「実体的な概念としてのゲーム」におけるゲームデザイン
「実体的な概念としてのゲーム」はゲームにおける「客観的な構造」を元にゲームを「実体」として捉える概念であり、その外延は「様々なゲームタイトル」であると考察しました。
つまり、単純に考えれば「実体的な概念としてのゲーム」をデザインするとは、ゲームを実体として捉えるときに基準となる「客観的な構造」をデザインする事であると捉えることができます。
ゲームにおける「客観的な構造」とはプレイヤーのプレイによって変化しないゲームの要素、つまり、ゲームがどのような情況でプレイされようとも「同じゲーム」であると認識できるある種の " 同一性 " を生み出す要素であると考えられます。
例えば、「ポケモンカードゲーム」では、だいたい月に1回新しいカードが発売され、使用できるカードの種類が変化します。一方でカードの種類が変化したからと言って「ポケモンカードゲーム」自体が「別のゲーム」になってしまうというわけではありません。これは「ポケモンカードゲーム」に一定の客観的な構造が備わっているからであり、そうした構造が「ポケモンカードゲーム」における同一性を保っているからです。
実はスポーツ哲学の研究では先行研究があり、「ゲーム」における同一性は、「そのゲームをプレイするプレイヤーのプレイの仕方」ではなく、「ゲームが適応するルール」によって保障されると考察されています。
一方、ルールズ・オブ・プレイではこうした「ルール」によってもたらされるゲームの同一性は「形式的な同一性」であり、「経験」や「遊び」の側面における同一性を保たないことを指摘しています。
つまり、経験の観点を含めた場合、ゲームにおける同一性は「ルール」だけでなく、そのルールを表現するゲームの要素※「ゲームシステム」「ビジュアル(イラストやUIデザイン、音楽など)」「ストーリーや世界観」「技術」が与える「文脈」が重要になってくると言えるでしょう。
(※ゲームデザインバイブル第二版「5.2:4つの基本要素」p.72より)
このことから、ゲームにおいて同一性は2つの水準において認識できると考えられます。
一つ目はルールなど制度的な同一性を扱う「形式的な同一性」であり、ルールズ・オブ・プレイにて扱われた「構成のルール」における水準の同一性です。
二つ目はルールだけでなく、そのルールを表現する文脈における同一性を扱う「文脈的な同一性」です。
例えば「シリーズもの」を例に考えてみましょう。「スプラトゥーンシリーズ」では「スプラトゥーン3」と従来の「スプラトゥーン」「スプラトゥーン2」を比べてもある程度の同一性を感じることができます。これらの作品同士はパラメータや使用できる武器の種類など厳密には細かな違いが存在しますが、登場するキャラクターや基本的なナワバリバトルをはじめとした試合のルール、世界観の共通性など、多くの類似点がゲームプレイに同一の文脈を与えることで、作品群に一定の「文脈的な同一性」を生み出しています。
このように、「文脈的な同一性」は、形式的には違う作品同士であっても、ある程度の同一性を生み出し、まるで同じゲームであるかのに私たちを錯覚させます。
ここまで「同一性」の例として挙げてきた「ポケモンカードゲーム」や「スプラトゥーン」ですが、それぞれ「同一性」を確認できたものの、「ポケモンカードゲーム」であれば使用できるカードの種類、「スプラトゥーン」であれば、ストーリーモードの違いや登場する武器やステージの違いなど、「完璧に同一である」というわけではなく、ある程度の「違い」を含んでいました。
これは逆に、ゲームにおける同一性においては、ゲームにおける全ての要素が同一性にかかわるわけではないと考えることもできます。
いわば、ゲームには、ゲームの同一性を生み出す「中核となる構造」があるのです。
ルールズ・オブ・プレイでは、ゲームの中心にある構造という点において近しいアイデアとして「中核となる仕組み」<コアメカニクス>が紹介されています。
ここで、先ほどの「文脈的な同一性」について思い出してみましょう。
「文脈的な同一性」は「ルール」の構造だけでなく、そのルールが適応される「文脈」も同一性を示すのに重要な要素でした。
これはコアメカニクスにおいても同様に考えられます。
例えば「スーパーマリオブラザーズ」と「ソニック・ザ・ヘッジホッグ」はどちらも共通して「ジャンプ」や「ダッシュ」といった行為が重要なアクティビティであり、ゲーム中何度も繰り返すことから、これらの行為は「コアメカニクス」の一部であると考えられます。
一方で、「スーパーマリオブラザーズ」と「ソニック・ザ・ヘッジホッグ」は明らかに別のゲームであると感じられます。
共通していた「ジャンプ」や「ダッシュ」という要素を実際のゲーム画面で比較すると、その表現は全く別ものであり、それぞれのアニメーションや速度感などコアメカニクスにおける「文脈」の違いが見て取れます。
このことから、ゲームにおける「文脈的な同一性」を生み出す「中核となる構造」には「コアメカニクス」だけでなく、そこに含まれる「文脈」を作り出す「ゲームの構成要素」が不可欠であることが分かります。
つまり、ゲームにおける「中核となる構造」とは「コアメカニクス」とその周りを構成する「ゲームの構成要素」から成る、「中核となる行為と、その行為に文脈を生み出す構成要素からなる、中心的構造」であると捉えることができ、これをデザインすることがこの領域におけるゲームデザインであると考えられます。
「ゲームと人々の関係性」におけるゲームデザイン
現在(2024.11.12)「大乱闘スマッシュブラザーズ special」には、なんと82体ものゲームキャラクターがファイター(操作キャラクター)として実装されています。
疑問なのですが、いくら様々なゲームタイトルからキャラクターが参戦して大乱闘を繰り広げる様子を表現するためとは言え、82体も本当に必要でしょうか。
それこそ、ニンテンドー64で発売された初代「大乱闘スマッシュブラザーズ」では参戦キャラクターは12体であり、今の1/7ほどのキャラクター数しかいません。
「実体的な概念としてのゲーム」におけるゲームデザインの領域を考察する中で、「ゲームにおける同一性」にはゲームにおける全ての要素は必要がないことを確認しました。
82体ものキャラクターは「ゲームの同一性」という観点から見れば、全く関係ない要素であり、そのゲームを成り立たせる「中核となる構造」を体現する上では64の時点で12体でゲームが成立していることを踏まえると、明らかに過剰であることは明白です。
なぜこんなにも膨大な数のキャラクターを参戦させる必要があったのでしょうか。
その答えがこの「ゲームと人々の関係性」におけるゲームデザインの領域にあります。
「ゲームと人々との関係性」は「ゲーム」と「人々」との関わり方、すなわち、「人々がどのようにゲームと関わるか」を扱う範疇です。
ゲームは人々の関わり方によって「あり方」が変化します。
例えば、プロのeスポーツプレイヤーがゲームをする場合、そのゲームは「仕事の活動」としてプレイされます。一方、一般のプレイヤーが趣味としてゲームをプレイする場合、そのゲームは「遊びの活動」としてプレイされます。
また、「仕事の活動」「遊びの活動」という大きな枠組みだけでなく、ゲームはより細分化された「あり方」でプレイされます。
「仕事の活動」の活動であれば、eスポーツをはじめとした「競技的なあり方」だけでなく、RTAにおける「パフォーマンス的なあり方」や、配信者による「ライブ配信型のコミュニティイベントとしてのあり方」が考えられます。
「遊びの活動」では「ガチプレイ」「エンジョイプレイ」といったゲームに対する「熱意の違いを表したあり方」や、「競争」や「運試し」や「自己表現」といった「ゲームプレイに求める遊びにおける動機の違いにおけるのあり方」が考えられ、特に「ゲームプレイに求める遊びにおける動機の違い」におけるあり方の違いは「ロジェカイヨワの分類」やMTGにおける「ティミー・ジョニー・スパイク」といった類型的なアプローチによって分析されています。
こうしたゲームと人々の関係はゲームのちょっとした要素によって生み出されます。
「スーパーマリオブラザーズ」のステージでは「スコア」や「タイマー」が設けられています。
一方で「スーパーマリオブラザーズ」のコアメカニクスは「ジャンプ」や「ダッシュ」をつかったステージにおける障害物を乗り越える「アスレチック的な行為」であり、こうした「アスレチック的な行為」のみを表現するのであれば、本来「タイマー」や「スコア」は不要な要素であるはずです。
しかし、この「タイマー」や「スコア」があるおかげで、私たちプレイヤーは新しい関係を「スーパーマリオブラザーズ」との間に築くことができます。
「スーパーマリオブラザーズ」における「タイマー」はプレイヤーにどれだけ早くステージをクリアできたかを、「スコア」はどれだけテクニカルにそのステージをクリアできたかを伝え、私たちの中に「スコア」や「タイマー」という「どれだけうまくゲームをプレイしたか」という指標が生まれます。
これにより、ゲームの腕前を競う基準が生まれ、プレイヤーたちと「スーパーマリオブラザーズ」の間に「競争の遊びの活動」としての「あり方」を見いだせるようになります。
また、「競争の遊びの活動」を見いだせたことで、その腕前を競う大会を開きプロ選手としてプレイする場合や、RTAなどのパフォーマンス的なプレイも見いだせ「仕事の活動」としての「あり方」も生まれてきます。
このように捉えると、「大乱闘スマッシュブラザーズSPECIAL」における82体もの異常なファイターの数の意味もはっきりと見えてきます。
「実体的な概念としてのゲーム」におけるゲームデザインでは、ゲームの同一性において「中核となる構造」が重要であり、それ以外の要素は同一性においてはあまり影響がないことを考察しました。
しかし、「ゲームと人々の関係」のゲームデザインにおいては、むしろ、この中核となる構造以外の要素が重要であり、中核となる構造以外の要素がゲームにおける多様な「あり方」を生み出すのです。
これは逆に、ゲームと人々における「あり方」に対応する「ゲームの要素」の働きをあらかじめ理解できれば、意図した「あり方」をゲームに持たせることも可能であることを示しています。
そのため、ゲームデザインにおいて「ロジェカイヨワの分類」や「ティミー・ジョニー・スパイク」は重要な役割を持ちます。
「あり方」を生み出す要素はゲームの内側、すなわち「ゲームのシステム」をはじめとしたゲームの構成要素の中だけではなく、その外側、「ゲームを取り巻く要素」にも存在します。
例えば、eスポーツにおけるプロライセンスは、そのゲームのプロプレイヤーに社会的な地位をあたえ、「仕事の活動」としてのゲームプレイをより一層確かな「あり方」にします。
ライセンス以外にも公式のライブイベントやグッズ制作、公式のディスコードサーバなどをはじめとしたコミュニティなど、ゲームとプレイヤーの「様々なあり方」を補強する「ゲームを取り巻く要素」が考えられます。
一方で、プレイヤーはデザインされたゲームをただプレイするだけではなく、デザインされたゲームとの関係をプレイヤー自身がさらにデザインすることでゲームの「あり方」を補強することもあります。
先ほど挙げた「ゲームを取り巻く要素」は、自主大会、同人活動、ディスコードサーバの設立など、どれもプレイヤー自身がデザインすることもできる要素です。
また、ここまで大掛かりな「ゲームを取り巻く要素」ではなくともプレイヤーはちょっとした「ゲームを取り巻く要素」をデザインすることでゲームに新しい関係も生み出します。
こうしたプレイヤーによるデザインの例として、RTA(リアルタイムアタック)と呼ばれるプレイ方法です。
RTAはゲームをクリアするまでにかかる現実時間を計測し、最速クリアを目指すプレイ方法です。
つまり、どのようなゲームであったとしても、プレイヤー自身が独自にレギュレーション(計測のためのルール)をデザインすることで、「競争の遊びの活動」としての「あり方」を見出すのです。
例えば2019年冬に行われたRTA in Japanでは全く競技性がないはずの「街へ行こうよ どうぶつの森」というゲームを使用して、ゲーム開始から借金返済までのクリア時間を競う「街森借金返済王決定戦」という大会が開催されました。
このように、「ゲームと人々の関係性」では、デザイナーやプレイヤー問わず多くの人々の手によって「ゲームを取り巻く要素」がデザインされ、新しい「ゲームと人々の関係性」が見出され、補強されるのです。
さて、ここまで「ゲームの要素」や「ゲームを取り巻く要素」によってゲームと人々との間に見出される「関係性」について、いくつかのパターンを見てきましたが、これらを踏まえると、このデザイン領域には大きくわけで2つの水準があることが見えてきます。
一つ目の水準は「ゲームの構成要素」をデザインすることによって生み出される「ゲームと人々の関係性」です。この水準におけるデザインの特徴は、制作しているゲームにあらかじめ意図した「あり方」を持たせることができる点です。特に「ロジェカイヨワの分類」や「ティミー・ジョニー・スパイク」など「ゲームと人々の関係性」を類型的に分析することでより効果的に構成要素をデザインし、プレイヤーとゲームの間に「意図したあり方」を生み出すことができます。
二つ目の水準は「ゲームを取り巻く要素」をデザインすることによって生み出される「ゲームと人々の関係性」です。この水準におけるデザイン特徴は、ゲームそのものをデザインするのではなく、その周りにある要素をデザインすることで関係を生み出すところです。それにより、プレイヤー自身も新しい「あり方」を生み出したり、もとから見出されていた「あり方」を補強するができます。
ここまで見てきた通り、このデザイン領域では「実体的な概念としてのゲーム」におけるゲームデザインとは異なり、「ゲームの構成要素」だけにとどまらず、ゲームの外側である「ゲームを取り巻く要素」にまでデザインの領域が幅広く広がっています。
「ゲームと人々の関係性」のゲームデザインでは、中核ではない一つ一つの小さな要素すべてがデザインの対象であり、そのどれもが「ゲームと人々の関係性」に繋がる重要な要素になるのです。
2つのゲームデザインについての補足
このゲームデザインの捉え方はまだ研究段階であり、曖昧な点が多いかと思われます。
今後私がこのゲームデザインを実践したり、勉強をする中で、改善点や新しい視点を見つけた際はアップデートを行ってより使い勝手のよいものにして行けたらと考えております。
皆様からのご意見も頂けると幸いです。
よろしくお願いいたします。
まとめ
従来の「ゲーム=遊びの活動」という当たり前を見直し、ゲームにおける「客観的な構造」を元に「実体的な概念としてのゲーム」と「ゲームと人々の関係性」という二つの範疇からゲームを捉えることを提案しました。
これにより、今まで捉えることが難しかった「仕事の活動としてのゲーム」をはじめとした「遊びの活動」以外のゲームも「ゲーム」として捉えることができるようになりました。
ゲームデザインにおいても、この2つの範疇を元に捉え直すことで、「遊びの活動」以外のゲームを捉えられるようになり、従来の遊びのデザインからより広い概念としてゲームデザインを捉え直すことができました。
つい最近、作業の効率化を促す「集中ツール」としてのゲームの存在を知り、ゲームの「あり方」の多様性をさらに実感しました。
従来の捉え方だとこうしたゲームも「遊びの活動」として捉える必要があり、少し回りくどい考え方をしなければいけなかったが、今回考察した捉え方であれば直感的に「集中ツール」としてこのゲームを捉えることができ、より「ゲーム」というものを扱いやすくなると思います。
また、ゲームの捉え方だけでなく、ゲームデザインにおいても少しデザインの領域が明確になりました。
例えば「ゲームと人々の関係性」のゲームデザインでは「ロジェカイヨワの分類」をはじめとした遊戯活動における類型的な分類がゲームにおける特定の「あり方」を想定し、その「あり方」に合わせた要素をデザインする際に有効であると、デザインにおいて効果的な場面が具体化されました。
これにより、今までざっくりとゲームと遊びの関係から抽象的にデザインに用いられていたこれらのツールが、どのような観点で、どのような場面において有効かわかることで、より的確に、スムーズに、効率的に扱えるようになります。
一方で「実体的な概念としてのゲーム」におけるゲームデザインでは、「中核の構造」と「そうでない要素」の境界はどこか不明瞭なままとなっており使いにくい問題もあります。
何をもって中核の構造と捉えるか経験や感覚だよりであり、ゲームデザインやゲームを知らない人が扱うのは少し難しいのが現状です。
もしゲームデザインにおいて、この考えを用いるなら、この「中核となる構造」に明確な基準が必要です。
総じて、従来に比べより広く、多様なゲームの「あり方」に対応しやすい柔軟な「ゲーム」や「ゲームデザイン」の捉え方が得られた一方で、まだ抽象的な部分やデザインの領域における境界の曖昧さが残っており、改良の余地が大きく残る考察となりました。
私自身の知識や経験が浅いこともあり、今後も勉強やデザインを続けこのアイデアをアップデートすることが重要であると考えています。
皆様のご意見などもいただけますと幸いです。
よろしくお願いいたします。
あとがき
今回一連の記事でまとめた内容は、基本的にはスポーツ研究における「プロスポーツの概念的考察」の流れをなぞりながらゲームを捉え直しただけではありますが、自分の中で新しいゲームデザインの見方ができた気がして個人的には満足感が高い勉強になりました。
特に目的からは外れてしまいますが、「ロジェカイヨワの分類」や「ティミー・ジョニー・スパイク」といった「遊びの活動」における類型的な分析がゲームデザインに有効な理由を、単に「ゲームが遊びだから」とするのではなく、「ゲームと人々の関係性において、どのような「関わり方」があるか把握し、それぞれの関係に対して有効なデザインをゲーム内に追加することで、より多くの「関わり方」をゲームと人との間に生み出せるから」というさらに踏み込んだ回答を得ることができたのは、私自身、ゲームデザイナーとして非常に大きな収穫でした。
また、ゲームデザインを「遊びをデザインすること」と捉える従来の考え方と「仕事の活動」や「パフォーマンス的な活動」としてプレイされることもある現実のゲームのあり方との違いに対する違和感を少し解消できた気がしてスッキリもしています。
一方で、前回・今回と論文を参考にnoteを書いたことで私自身の知識のなさを痛いほど実感させられました。
私はゲームについて勉強を始めたのは1年ほど前からですが、まだ読めていない有名な本や論文は山ほど存在します。
特に最近「ゲーム研究」「ゲームスタディ」という学問領域の存在に気づき、私が勉強しているゲームデザインの領域に近しいものがありそうで、今後は一旦この辺を関係を中心に勉強してみたいと考えています。
ただ、このリンク先の資料を確認すると、どうやら日本においてはまだ海外のように、あまり「ゲーム研究」の分野がまとまっていないようで、今後どのように勉強するべきか少し考えなければならいかもしれません。
ゲームデザインの勉強は学校での勉強と違い、知識やアイディアがいろいろなところに散らばっていてなかなか体系的に勉強することができず難しいですが、それぞれの知識をかき集めて考察する中で、離散していた知識同士が綺麗に嚙み合ったときはパズルが解けたようで非常に楽く感じています。
本文には書けませんでしたが、ゲームフリークの代表であり、ポケモンの生みの親の1人である田尻智氏が監修されている「ゲームは動詞でできている」という本の主張とルールズ・オブ・プレイにおけるコアメカニクスの「中核となる行為」というアイデアの類似性を見つけた時は、とても気持ちいいものがありました。
ゲームデザインのアイデア自体は本当に多く存在しています。
「大乱闘スマッシュブラザーズ」の生みの親である桜井政博氏はYoutubeにて「桜井政博のゲームを作るには」というチャンネルで、ゲームデザインにおけるアイデアを短めの見やすい解説動画としてまとめてくれています。
ゲーム制作に関する様々なアイデアを10以上のジャンルに分けられ、とても見やすいので個人的にはお勧めです。
しかし、こうした多くのアイディアは、ジャンルに分けてまとめられているとは言え、まだ分散的で、どのように把握し、実践に応用すればいいのか、正直、私自身全く見えていません。
「ゲーム性」についてまとめた再生リストを見ていただければわかると思いますが、「ゲーム性」として1つのジャンルとして扱ってはいるものの、解説されるゲームジャンルやゲームの要素自体は、動画ごとに意外と違います。
どのアイディアも非常に便利そうで良さそうに見えますが、使いどころを間違えると、むしろ悪い方向に働くため、制作しているゲームのどの部分にどのアイディアを用いるか難しく感じます。
こうしたアイデアは適材適所であり、正しく用いるためには、現状どうしても、それを導き出すための多くの経験と知識が必要不可欠です。
また、先ほども述べたようにゲームデザインはノウハウは多い一方で教科書のような体系的にまとめられた情報が少なく、知識をつけるのも一苦労です。
実際にゲームを作りながら試せればいいですが、ゲームを作ること自体も、まあまあハードルが高いです。
そのため、私自身、現状ゲームデザインの勉強はハードルが高いと考えており、せめて知識だけでも学びやすくなるような、体系的にゲームデザインを勉強できる、ゲームの概念的な構造が分かる解剖図と、その解剖図を基準にデザイン領域を解説したゲームデザインマップがあればいいなと思っております。
ルールズ・オブ・プレイはそれこそゲームを3つの図式で分解し、そこからさらに細分化しながら各要素におけるゲームデザインのポイントがまとめられており、ゲームデザインの勉強のための資料としてとても参考になりました。
しかし、今回考察したように「ゲーム」を「遊びの活動」として捉えると、近年の多様化したゲームを扱うことが難しく、そのまま応用することできません。
そのため、今私が求めているのは、近年の多様化したゲームのあり方も包括して扱う「第二のルールズオブプレイ」と呼べる資料なのかもしれません。
もし、すでにそうした本や資料があるのなら教えていただけると幸いです。
今回は前回以上に長くなってしまいましたが、
ここまで読んでいただき誠にありがとうございます。
今後ともゲームデザインについて知見を深めるため、
ゲーム制作や勉強を頑張ってまいります。
よろしくお願いいたします。
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