見出し画像

面白いけどかなり考えさせられた本⑤-1【僕にはわからない】


今回は

心の師匠の中島らもさんのこの本を改めて読みました。最初読んだのは大学生の時でした。改めて私の思考の形成に師匠が影響しているなと改めて感じました。

響いたところ

P12 宇宙のほんとのとこはどうなっているのか?

例えば太古の宇宙のモデルを見ると、我々はその可愛らしさに思わず笑ってしまう。象に支えられたお盆のような世界。あるいはアトラスが飯も食わずトイレにもいかず、永久に力仕事で持ち上げている世界。そしてそれを覆う空というのはドーム状になっている。星とはすなわち、そのドームに穿たれた小さな穴なのだ。そこから漏れる光が星の輝きの正体なのだ。アトラスや象は一体なんの上に立っているのか。この宇宙モデルを作った人はそのことをかんがえたであろうか?
笑ってしまうかもしれないが、科学情報の集積もなく、望遠鏡もない太古にぽんと無知のままに放り出されたとする。そこで宇宙はどうなっているのか図に描いて示せと言われたらあなたならどんな絵がかけるだろうか。 すくなくとも僕には太古の宇宙モデルを笑う資格はない。

我々は自分の知識・経験の中でいろんな判断をしています。これ自体は避けれるものではありませんが。
・無知の知

・普通は普通ではない

という意識をつけてくれたのはこの文言だったのかもしれませんね。

P28 人は死ぬとどうなるのか?

例えば人間という種の生命を考えてみるとよく分かるのだが、人間は極端な言い方を許してもらえるなら、別に死ぬ必要はない。
我々の死、つまり個々の不連続が全体の連続を支えているのだ、その意味で我々は「永遠に死なない」と考えても誤りではない。
例えばひとつの個体を考えるときに、「死後の世界」ではなく個体の死から遡っていく考え方をしてみよう。僕なら僕という個体の経た時間を遡っていくと僕はどんどん若返っていき子供になり赤ん坊になる。それももっともっと遡っていいくと一個の受精卵になる。僕の僕としての存在はここまでである。ただその向こう側にあるのは死ではなく限りない生なのだ。僕は精子と卵子に分かたれる。静止を辿っていくとそれは僕の父親になり、乱視は母親である。同じ方法で父親を、母親を辿っていくろ倍々ゲームに枝分かれていく先にはほぼ無数の「生」がある。死はどこにも存在します。そこにあるのは輝く「生」の海であり、種の全体の命がそこにある。
少なくとも種としての生命から僕という個を見ればそういうことである。僕は個であると同時に種の一部である。こう考えていいくと天国だの地獄だのの虚妄に惑わされることもない。

これは学生時代になるほどなーと思った文章です。生は連続しているという意識、個体の死の意味など、正解はないと思いますが自分自身の納得する解の一つにはなりました


今日はここまで



よろしければサポートお願いします。 NYAUWの活動は現在マネタイズを考えずに意義のみを追求するフェーズです。 ニッチな分野のやせ我慢プロジェクトですので お気持ちだけでも嬉しいです。