どうしてそんなにいつも学んでいるのか、と質問されたから答えてみます
すぐに検索できるツールがあるのだから暗記なんてしなくていい、と、よく聞く。本当だろうか。
子どもも、検索スキルを手に入れれば、暗記スキルを手に入れなくても豊かに思考能力を発揮できるようになるのだろうか。
おそらく暗記にこれほどまでに人々の嫌悪感が募るのは、これまで暗記させられてきた内容が自分の人生を豊かにしていない、という実感が強いからだろう。
わたしが国立大学の医学部保健学科で理学療法士を目指し始めたのは25歳になる年で、一連の学校教育を一通り終え、受験戦争も乗り越え、そのあと米系金融会社で2年働かせてもらってから、だったが、たしかに高校生までに『暗記した何か』が激しく役に立ったという記憶は薄い気がする。
けれどもそのあと気がついた。理学療法士になるためにはじめた勉強はすべて、理学療法士になってから役立った。そしてそのほとんどが暗記科目だった。
(強いて言えばそれまでの学びもその後の人生でじわじわ役に立ってくるのだが、それは割愛。)
想像してみてほしい。
明日あなたが脳卒中で半身動かなくなったとして、そこに訪れた理学療法士に麻痺とはどういうものなのか質問して、その場できちんと説明してもらえなかったらどう思うだろうか。
人の身体を触るということは信頼関係がなければうまくいかない行為でもあるので、もちろん麻痺とはなにか、どういう病状か、これからどういうリハビリを考えているか、目を見て話ができなければ、第一日目からリハビリは失敗になる。
この能力を、コミュニケーション能力の問題だと誤解してはいけない。
この能力は、暗記の上に培われた整理能力、その上で患者に物事を伝える意思と気持ちの問題である。
人は、少しの会話で、相手の知識量を測ることができる生き物だ。あるひとつの、自分が興味のあるテーマについて、目の前の人間が自分よりも詳しいかどうか、そんなことはものの数分で理解できる。
身体に不安を持っている人たちは、それこそ検索ツールを利用して、さまざまな問題について自分なりの答を探してからお金を払う覚悟をして専門家に会う。そのときに、その専門家の知識が検索ベースだということに気がついたら、きっと信頼関係は損なわれるだろう。
実際問題、知識が少なければ目の前の患者は良くならない。
理学療法士は急性期だって扱うのだから、命の危険に晒してしまうことだってあり得る。
知識あってなんぼ、あってその上でどう考えられるか。
つまり、思考力は知識力を土台にして積み上がっていくものなのだ。
三種類の野菜で料理を作るよりも、十種類の野菜で料理を作るほうが、圧倒的に豊かな食卓になり、作る側の思考が求められ、最終的な満足度が高い、それと同じだ。
理学療法士になるために過ごした数年間、わたしは本当にたくさん勉強した。理学療法士になってからも、勉強した。大学受験や、会社でアメリカの証券外務員資格を取ったときよりもずっと長く、ずっと深く、真面目に勉強した。
それでも臨床に出てみるとできないことばかりで、そこからまた勉強した。そこからの勉強は、手を使うものであり、経験を伴うものであり、やっとコミュニケーションという領域にたどり着いた気がした。
何かが役立つ、という言葉も難しい言葉で、〇〇は役に立つ、という意味で使ってしまうとその判断は『役に立つか立たないか』という視点にとどまってしまう。
しかし、これを、〇〇を役に立てる、という意味で考えると、得た知識を役に立てるかどうかはその人間次第、ということになる。
暗記して必死に身につけたなにかを、自分の行為に『役に立てる』。そう考えるべきだ。
動かなければ始まらない、という言い方が愛される世の中では、動いているように見えないことは軽んじられる、かもしれない。
けれども、暗記は学びにおいて、少なくともヒトの体を扱う学びにおいて、最初のスタートダッシュに他ならない。
大量の暗記をせずに身体を触りはじめた、運動を教えはじめた人は、かならずあとでこのスタートダッシュ分を取り返さなければならなくなる。わたしはこの分野にいてそのことをずっと痛感している。
別に一番にならなければいけないわけではない。学校とは違って、誰かが点数をつけて順に並べてくれるような便利な世界ではない。ただただ、学び続けること、が、デフォルトのスタートラインだということだ。
だから勉強も暗記もやめない。
いくらおぼえても脳は忘れていくし、おぼえなければならないことはまだまだ山ほどあるし、刷新しなければいけないことも常にある。
大丈夫、衰えていくとは言っても、死ぬまで脳細胞はネットワークを止めない。(自分への励まし。)
今日からでもいい、埃をかぶった教科書を一から全部読み尽くしてみよう。