こちら側をあちら側に差し出しつづける、ということだ、生きるということは
わたしは理学療法士なので、ひとの爪が切れない。
理容師とか医師とか看護師とか鍼灸師とか、ひとに刃物(や針、や火)を当てることができる職業というのは限られているのだ。
けれども患者さんの足の爪が割れていたり、それを痛いとか不快だとか思って訴えが強い場合には、ご本人や家族にわたしの職業の限界をきちんとお伝えした上で了承を得て、手の届かない(あるいは手先を使えない)本人の代わりに、または目の悪い(あるいは爪が硬すぎて切るのが怖い)家族の代わりに、爪を切る・削ることも何度か経験している。(ごめん法律。)
お年寄りの足の爪は厚くて、周りの皮膚も角を取り囲むように硬くなって、ときには驚くほどの曲率で巻いている。爪に限らずわたしは歳を重ねた彼らの身体の様子が好きだ。そこには、長い年月で蓄積された動きのクセや、日光との格闘の末のシミや、いつかの豊富な軟部組織の名残である弛んだシワがあって、ああこの人はわたしよりもずっと長い間この世界に存在しているのだと感慨深い気持ちになる。
ふと足の爪について考えていて、お年寄りの爪の「深さ」を思い出した。爪の白い部分、皮膚から浮いている部分が大きいのだ。どこまで切ったらいいのか呆然としてしまう深さ。もちろんそこには垢が溜まり埃も詰まる。宙に浮いているので割れやすくもなる。それに、硬いし厚いし巻いているし、もうなんというか、「自分の味方」ではなくなってしまっているというか。
年齢を重ねて(わたしは今年42になる)、先日、わたしは、自分の足の爪の深さの変化にも気が付いた。
わたしの足の爪の境界線も、絶対にこれは、20年前よりも「わたし寄り」に移動している。これまで自分のものだった部分が、ある日、自分のものではなくなる、という日々を、どうやらわたしも経験しているようだ。目の前にある子どもの足の爪と比べたり、同い年の夫の爪をまじまじと見つめてみたりする。
子どもの爪は強固に体に張り付いているように見える。瑞々しい皮膚と、艶やかな爪。まだ境界線は、ずっと、彼の身近にある。
世の中には魂の重さを計測する実験、というものがあったらしい。信憑性が疑われてはいるけれど、間違い無いのは、ひとは、ヒトの死を、何らか「失う現象」だととらえてやまない生き物だということだ。「死んだらちょっと軽くなる」と言われると、「そうかもしれない」と思ってしまう生き物だということだ。
所有している何かを、外に明け渡していく。それが歳を取るということなのかもしれないと思う。身体そのものでさえも。