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「大豆田とわ子と三人の元夫」が最高である理由。(後編)

■とわ子という存在が伝えるメッセージ

大豆田とわ子は、ノリが良くて明るい一方、常識人でもある。
頑張り屋で人望もあり、社長業の傍らシングルマザーとして娘を立派に育ててもいる。

そして、付きまとう元夫たちに対してあれこれ文句を言うことはあっても、彼らのパーソナリティそのものを否定したり拒絶したりはしない。
それこそは彼らが「甘えていた」という、彼女の優しさなのだ。

劇中で描かれる彼女の人となりは、おおよそこんな感じである。
男女を問わず視聴者の多くにとって、そんな彼女は「善き人」の象徴として、とても魅力的で素晴らしい人物に映るのではないだろうか。

ややもすると、それは彼女というキャラクターにリアリティーの欠如をもたらしかねず、そうなれば視聴者にはこの物語が絵空事のように見えてしまう。

だが、そんな彼女にとっても人生は思うに任せないことの連続である。

日々降りかかる大小さまざまな災難に苦闘しつつ「なんてこった」とボヤく姿は、観る側に親近感を感じさせ、作品と現実との距離をグッと近づけてくれる。

物語終盤、彼女の行動原理はあるセリフにはっきり表れる。

「私の『好き』は、その人が笑っててくれること。笑っててくれたら、後はもう何でもいい」

坂元作品には一貫して、”日々いろいろあるけど、それでも人は幸せを目指して歩く”というテーマ性が見られるが、それは本作にも通底している。

とわ子の存在を通して、坂元裕二はすべての視聴者へ”失敗したり辛いことがあっても、笑顔を失わないでいて欲しい”というメッセージを紡いだのだと感じられる。

■メタフィクション構造がもたらす効果

本作には、いくつかのメタフィクション的な仕掛けが組み込まれている。

・とわ子が劇中、唐突にカメラ目線でタイトルコールをする
・とわ子の心情を代弁したり、この先に起こる出来事をネタバレしたりするナレーション
・とわ子と夫たちが週替わりでラップや歌を披露するエンディング曲

これらの仕掛けはシンプルに楽しいし、作品のフックにもなっている。
(エンディング曲のクオリティは、映像含めて出色)

だが、この仕掛けがもたらす効果はそれだけではない。

物語中盤、とわ子は大切な人を突然失うことになる。
続けて、「しろくまハウジング」には会社乗っ取りの危機が訪れる。

そうして序盤のコミカルさから一転、不穏なムードが漂い始めるのだが、このメタフィクション構造が組み込まれているおかげで、観る側は事態の重苦しさから適度な距離を取ることができる。

とわ子への親近感が物語にリアリティをもたらし、一方でメタフィクション構造が程よいクッションとして作用する。
そうした絶妙なバランスも、本作の特徴のひとつだと言えるだろう。

■最後に

ここまで何だかんだと書いてきたが、果たして本作の魅力がどの程度伝えられただろうか。

細かいことは抜きにして、とにかく観て欲しい。

善き人ながら苦労が絶えないとわ子や、いびつではあるが愛らしい元夫たちの姿に、笑ったり泣いたり身につまされたりしながら、やっぱり人生って悪くない、と感じて欲しい。

ある登場人物のセリフにあるように、人生というものが起承転結の物語ではなく、あくまで「その時々をどう生きるか」の積み重ねだとするなら、この作品は今を懸命に生きる人たちを称える、素晴らしき人間賛歌なのである。

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