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「安野光雅」と若き日の後悔

2023年も残り半月、年末までのカウントダウンが始まりました。クリスマスも近づき、孫へ送るクリスマスプレゼントに、何冊かの絵本を買っておいて欲しいと連れ合いから頼また。その内の2冊、『ABCの本』と『あいうえおの本』が「安野光雅」の絵本でした。「安野光雅」は、日本のみならず世界的にも有名な絵本作家で、2020年12月24日に肝硬変のため亡くなられています。

「安野光雅」のこと

島根県津和野生まれで、1949年(昭和24年)に美術教員として上京し、教師を務めるかたわら、本の装幀やイラストなどを手がけ、35歳のとき絵描きとして自立。
1968年(昭和43年)、42歳の時に刊行された最初の絵本『ふしぎなえ』(福音館書店)で、絵本作家としてのデビューを果たします。その後の活躍によって、次第に世界的に評価が高まり、絵本は世界各国で翻訳されています。

文化功労者の受賞をはじめ、紫綬褒章、国際アンデルセン賞画家賞など、国内外の数々の賞も受賞。代表作は、デビュー作の『ふしぎなえ』を始め、『ABCの本』、『旅の絵本』や、司馬遼太郎の紀行『街道をゆく』の装画などもそうです。

絵の特徴は、俯瞰的でデザイン化されていて、細部まで精密に描写された、美しくてノスタルジックな水彩画です。どこかヨーロッパ的で、「ユーモア」とか「遊び心」なども感じるところもあり、子どものみならず大人も楽しめる作風です。「奇想の版画家」と呼ばれる、オランダの画家(版画家)「エッシャー」の影響を受けたということですので、絵に詳しい方であれば、すごく納得できると思います。

(参照)小風さち 絵本の小路から/不思議な先生|『ふしぎなえ』安野光雅 絵

「ある友」のこと

1974年(昭和49年)、私が美大を目指していた高校3年生の頃、美大・芸大専門の予備校である「中の島美術学院」に通っていたのですが、当時、仲良くしていた友人の伯父さんが、「安野光雅」だったのです。驚いたことを今も覚えているので、たぶん、「安野光雅」のことは、その事実を聞く前から知っていたのだと思います。

仲良くしていた友人とは、とにかく気が合って、暗くなりがちな受験生にとっては、本当にありがたい存在でした。私にとっては単なる友人ではなく、なんというか一種の憧れを抱くような存在でした。絵も上手く、頭も良く、気持ちも優しく、そして何より私と好きなものが似ていたのです。今思うと、本当は似ていたのではなく、私が真似していたのかもしれません。

「二十歳の頃」のこと

現役受験はお互いに失敗し、浪人時代も一緒に「中の島美術学院」に通うことになりました。そして一年後には二人とも無事合格。彼は、『武蔵野美術大学』の油絵学科、私は、『多摩美術大学』のグラフィックデザイン学科に、それぞれ進むことになります。ほかの仲間たちも、『武蔵野美術大学』に多く合格していて、大学のある『鷹の台』には彼らの下宿先があり、よく遊びに行ったものです。

入学後、彼はほかの仲間数人と、大学の部活動「アメフト部/当時はアメラグ部」(現在は無くなっていました)に入っていて、「今度試合があるから、観に来ないか?」と言われ、断る理由もないので観に行ったところ、どういう訳か私もその「アメフト部」に入ることになってしまいます。その後は練習に向かうため、自分の大学(八王子キャンパス)の授業が終わるとすぐに、『鷹の台』まで向かう生活が始まったのです。

練習が、週のうち何日あったのかは、今では思い出せないが、練習で遅くなった時は、よく彼の下宿に泊まらせてもらいました。練習終わりに、近くの食堂で大盛りの飯を食い、夜遅くまでくだらない話をし、翌朝目が覚めると、「アメリカン・ロック」を聴きながら、挽きたてのコーヒーを飲む。朝のルーティーンでした。特に「オールマン・ブラザーズ・バンド」の『ジェシカ』と、「イーグルス」の『テイク・イット・イージー』は定番の曲で、今でも大好きな曲です。懐かしく本当にいい思い出です。情景までも鮮明に浮かびます。

鷹の台 玉川上水緑道

「ある後悔」のこと

二年生になると大学の課題も増えていき、別の大学の部活動に通うのはなかなか難しく、結局辞めてしまうことになりました。彼と会う機会も当然激減したのですが、それでも時々は、『鷹の台』にいる彼やほかの仲間たちとも集まって、またまた夜遅くまでくだらない話をしていました。

大学の4年間はあっという間に過ぎ、お互いに就職し、会うこともまったく無くなり、数年が経った頃、別の友人から、その彼が亡くなったという連絡が入ったのです。葬儀が行われる場所も聞いていたのですが、結局行きませんでした。言い訳かもしれませんが、葬儀に行って彼の死顔をみるという現実を受け入れられず、行けなかったのかもしれません。薄情な人間です。

高校三年生、浪人時代、大学一年生の3年間、たった3年ですが、私にとっては、濃密な友人関係でした。「親友」だったのかと問われると、なんかそれとも違っていて、かといって「単なる友人」でもないし、私自身もよくわかりません。ひょっとしたら、私にとって彼は、「アイドル」だったのかもしれません。葬儀に行かなかったことを、後でずいぶん後悔しました。ちゃんと、「友」との別れをした方が良かったと・・。

「プレゼント」のこと

図らずも、「安野光雅」の絵本を買うことになり、二十歳の頃、仲の良かった友人を思い出しました。「安野光雅」の絵は大好きで、その友人の伯父さんということもあり、絵本を数冊持っていました。あれから46年も経って、自分の孫へのプレゼントで、「安野光雅」の絵本を買うなんて思いもしなかったです。

奇しくも、12月24日は、「安野光雅」の命日です。
このプレゼントは、クリスマスイブに亡くなられた、「安野光雅」への供養になるかもしれませんね。そして、あらためて、「友」への弔いの気持ちを持てたことにも、感謝したいと思います。若くして亡くなった「友」はもういないですが、私にとって彼は今も「心友」です。

最後に、本文では敬称を外し、「安野光雅」と書きましたが、絵を学んできた者にとっては、本来は「先生」とお呼びしないといけない方です。謹んでお詫び申し上げます。

(てべぱ)


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