慰安婦 戦記1000冊の証言1 創設者・大将
日本軍の慰安婦とは?
戦地で日本軍につきまとった「単なる売春婦」なのか、日本軍が創立し、管理した「慰安部隊」ともいうべきものか。
「慰安婦問題」を考えるうえの基本中の基本について、日本軍将兵の「慰安婦体験」を記述する「戦記」などから探ってみよう。
恥かしながら
陸軍の岡村寧次大将は、その回想録で、「私は恥かしながら慰安婦案の創設者である」と告白する。
「昭和7年の上海事変のとき2、3の強姦罪が発生したので、(上海)派遣軍参謀副長であった私は、同地海軍に倣い、長崎県知事に要請して慰安婦団を招き、その後全く強姦罪が止んだので喜んだものである。
現在(昭和13年ごろ、中支那派遣軍第11軍司令官時代)の各兵団は、殆どみな慰安婦団を随行し、兵站の一分隊となっている有様である」と述べている。
ところが「第六師団の如きは、慰安婦団を同行しながら、強姦罪は跡を絶たない有様である」と嘆く。(1)
強姦罪、海軍の慰安婦史はさておき、陸軍の「慰安婦分隊」を追いかけよう。
やはり、上海事変期、岡部直三郎大将は上海派遣軍高級参謀だったが、昭和7年3月14日の日記に、
「この頃、兵が女捜しに方々をうろつき、いかがわしき話を聞くこと多し。これは、軍が平時状態になるたけ避け難きことであるので、寧ろ積極的に施設をなすを可と認め、兵の性問題解決策に関し種々配慮し、その実現に着手する」と書いた。(2)
また、7年4月、満州に出動した有末精三・青森歩兵第5連隊第一大隊長は、綏中で守備にあたるが……。
「駐留久しきにわたるとき兵員損耗が病気によることの多いのにかんがみ、舎営部隊の衛生については特に留意すべく次のような処置をとった」
「(そのひとつだが)町の中心部にカフェーナナム(歩76の命名)というのがあってウエイトレスとして7、8名の女性がいたほか、2、3のところに邦人、鮮人の売春婦が15名ほどいた」
そこで、「1週間に1日宛の外出日を割振り」って利用させた。(3)
指揮官にとって、部下の「性欲管理」は大きな仕事のようである。
上海での軍事行動は短期間で終わり、「慰安婦分隊」も、陸軍の引き揚げとともに解散したと思われる。ただし、満州では長期駐留とともに、本格的に「慰安婦分隊」が形作られていったようだ。
各地の遊廓に協力要請
中国大陸で「慰安婦分隊」が華々しく再登場するのは、昭和12年の日中戦争からだろう。
「昭和12年7月に突発した北支事変は、8月にはいって上海に飛び火し、政府は2個師団を上海に派遣した。上海派遣軍は、これらの将兵に対する慰安所の設置を決定し、西日本各地の遊廓に協力を要請した」(4)
軍のかわりに女郎屋を
また、これは東京の話だが、昭和12年11月、上海が陥落して間もないころ、私娼街の玉の井銘酒屋組合長は陸軍省から出頭要請を受ける。陸軍省へ出向くと、同業者が数人いた。応対した参謀少佐が要請する。
「若い血気の兵隊にとっては、性欲のハケ口をどうするかということが大きな問題です」
「そこで皆さんにお願いだが、軍の慰安のために接待婦を至急集めて戦地へ渡ってもらいたい。つまり軍に代わって慰安施設を開いてもらいたい」
「内地はもとより台湾・朝鮮からも自主的に或いは軍の要請で、すでに多くの娘子軍が大陸へ渡っているが、本日お集まり願った玉の井・亀戸地区の皆さんにも、是非ご協力を願いたい」
「住居は軍が準備するし、食事の給与その他移動に関しては、すべて軍要員に準じてこれを行います」
「要するに業者の皆さんが自主的にこれを経営するという形を取りたいのです。まさか軍が女郎屋を経営する訳にはいかんのでね。はっはっは」(5)
少佐は参謀肩章を揺すって笑った。慰安所開設について、娼婦の料金をいくらにし、それを雇主とどう分配するかまで、業者顔負けの案も出来ていた。
この点、敗戦後、産経新聞社長などを務めた鹿内信隆が、入校した陸軍経理学校の教育で受けたと証言している。
慰安所の開設に際し、「調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの〝待ち時間〟が、将校は何分、下士官は何分、兵は何分……といったことまで決めなければならない(笑)。料金にも等級をつける。
こんなことを規定しているのが『ピー屋設置要綱』というんで、これも経理学校で教わった」(6)
戦後、九州電力社長を務めた永倉三郎も、その辺の事情を語っている。永倉は、昭和10年、現役召集されて以後、敗戦まで数回召集され、主計将校として、中国、満州、ビルマと戦歴を重ねた。
「そのような設備(慰安所)を準備するのも主計の仕事とされていて、考えれば誠に因業な仕事であったのである。
家を確保すること、部屋の間じきりなどお客のとれるような設備を準備すること、飲食物の補給をすることなどが、歴史の中に隠された仕事であった」(7)
女郎屋を迅速に
「慰安婦分隊」新設のための動きは急だった。
南京攻略前に占領した浙江省湖州では、昭和12年11月下旬、陸軍第124連隊の下士官が慰安婦と遭遇している。
「朝早く、一人で別の風呂屋に行ったことがある。そこには濛々と湯気の立ちこめた中に、若い肉体美の朝鮮ピーが浴槽に盛り上がる程一杯に入っていた。
湯気に包まれて浮かび上がった若い女性の肉体の美しさ、然も全裸2、30人の女の肌の美しさ、自分は逃げ出すわけにも行かなかった。勿論、其の場には男性は自分一人であった。
湖州にも日本人慰安婦が到着したし、支那人、朝鮮人も来て、それぞれ店を張った」(8)
南京での「慰安婦分隊」設置も進められた。上海派遣軍参謀長は、昭和12年12月19日、「迅速に女郎屋を設ける件に就き長中佐に依頼す」。
2日前の17日に南京入場式を行ったばかりだ。早速、長勇中佐が動く。
12月25日、上海から南京に戻った長中佐は、「上海で青幇の大親分黄金栄に面会」「女郎の処置も内地人、支那人共に招致募集の手筈整い、年末には開業せしめ得る段取りとなれり」と報告したようだ(9)。
この間、南京地元でも慰安婦集めが行われた。たとえば、12月24日、女性避難民を収容していた南京市内の女学校に、師団の高級軍事顧問を派遣。
慰安婦として働かせるため、避難していた中国人娼婦を21人見つけ出して、連れて行ったという(10)。
その結果、作家の石川達三が南京を訪れた、昭和13年1月初旬には、こんな慰安所風景が見られた。
「(南部慰安所では)百人ばかりの兵が二列に道に並んでわいわいと笑いあっている。露地の入口に鉄格子をして3人の支那人が立っている。そこの小窓が開いていて、切符売場である。
1、発売時間 日本時間正午より6時 2、価額 桜花部1円50銭 但し軍票を用う 3、心得 各自望みの家屋に至り切符を交付し案内を待つ。
彼等は窓口で切符を買い長い列の間に入って待った。1人が鉄格子の間から出て来ると次の1人を入れる。出て来た男はバンドを締め直しながら行列に向ってにやりと笑い、肩を振りふり帰って行く。それが慰安された表情であった。
露地を入ると両側に五、六軒の小さな家が並んでいて、そこに1人ずつ女がいる。女は支那姑娘であった。彼女等の身の安全を守るために、鉄格子の入口には憲兵が銃剣をつけて立っていた」(11)
《引用資料》1,岡村寧次「岡村寧次大将資料・上」原書房・1970年。2,岡部直三郎「岡部直三郎大将の日記」芙蓉書房・1982年。3,有末精三「有末精三回顧録」芙蓉書房・1974年。4,長沢健一「漢口慰安所」図書出版社・1983年。5,大林清「玉の井挽歌」青蛙房・1983年。6,桜田武・鹿内信隆いま明かす戦後秘史上巻」サンケイ出版・1983年。7,永倉三郎「無我の人生―中国・ビルマ従軍編」西日本新聞社・1985年。8,村田和志郎「日中戦争日記・第一巻杭州湾上陸」鵬和出版・1984年。9,南京戦史編集委員会「南京戦史資料集」偕行社・1989年。10,ミニー・ヴォートリン「南京事件の日々」大月書店・1999年。11,石川達三「生きている兵隊(伏字復元版)」中公文庫・1999。
(2021年10月12日まとめ)