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こどもてつがく低学年 神はいるのだろうか?

2022.12.03 飯山総合学習センター こどもてつがく 

文 杉原あやの

低学年8名との哲学対話の記録

なるべく子どもたちの意見をニュアンスが変わらないように鉤括弧で書きます。丸括弧は、子どもたちの言葉を補うために筆者が補足を書いています。

さて、12月の哲学の時間がやってきました。


はじめに、みんなでより良い対話ができるように、哲学対話のルールをもう一度確認しました。

「相手の話をちゃんと最後まで聞こう」というルールを伝えるだけではなく、どうしてちゃんと話を聞かなければならないのか、ちゃんと話を聞くとはどういうことなのか、少しみんなに考えてもらいました。

例えば、ファシリテーターのだいちゃんが寝っ転がってゴロゴロしてみます。
こどもたちは、「それはちゃんと話を聞いてないと」口々に言います。

参加者の一人が「相手の目を見て話を聞く」と発言しました。

「ちゃんと話を聞いてくれないと、悲しむ」という意見もありました。

このようにして、事前にじっくりルールの確認をしたことで、今までで一番いい対話の時間ができたように思います。ひとりひとりが気をつけて、話を聞く姿勢をとることで、話す人の気が散りにくくもなり、みんなが集中しやすくなると、より対話に参加しやすくなります。

素朴な疑問を出し合おう!


今年の4月から、こどもてつがくに参加して鍛えられてきたこどもたちに、期待を込めて、今回は、全員に問いを出してもらいます。ひとり一つ問いを書き、今日話し合いたいテーマを投票で決めることにしました。


ポスターの裏紙にみんなで疑問を書きました。


全員、自分の力だけで、問いを書くことができました!
早く問いを出し終わった子は、2個目の問いを書いています。

どうして人間は死ぬのに数字は無限にあるのか?
どうして壁はあるのか?
どうして電源は100%から0%なのか?
なぜ世界にはいろんな言語があるのか?

なぜ生き物がいるのだろう?
神はいるのだろうか?

なぜ人は食べたものをエネルギーに変えるのか?
なぜ地球には酸素があるのだろうか?
なぜ人は、食材を料理にして食べているのだろう?

並べた紙をみんなでよく見て、一人2票づつ気になる問いに投票をします。自分のところに1票を入れて欲しいとお願いする子も・・・。「こらこら~選挙活動しないの~!」そんなことを言っているうちに、全員が投票を終えました。

投票で決まったテーマは「神はいるのだろうか?」でした。

果たして、神はいるのでしょうか?

※注意 哲学対話では、お互いの違いを乗り越えて、対話を行います。哲学ファシリテーターが何らかの答え・価値観を教えることはなく、深く考えるお手伝いに徹します。

神はいるのだろうか?

早速、みんなにどう思っているのか手をあげてもらうことにしました。
8人中、神がいると思っているのは5名、いないと思っているのは2名、分からないと答えたのは1名でした。全員に、自分の考えとその理由を書いてもらいました。

どう思う?そして、その理由は?


・神がいなかったら神社はないから、(でも実際には神社はあるから)神はいると思う。

・ピラミッドの神もいるし、本に「神」の話が出てくるから、いる。

・神はいる。(いないのなら)七福神や神様のお祭りの神社やお正月の意味がなくなるし、お祈りも意味がなくなってしまうから。

・神はいる。なぜなら、アマテラスという名前の神さまがいるからです。

・神はいると思う。なぜなら、神がいると思う人がいるなら、神はいるから。

・神はいない。神話で考えられたのが神だから。

・神はいないと思う。神様がいたら、もっと人生がうまくいくと思うから。

・神はいるか分からない。見えないし、存在しているのか分からないから。

神様ってどういう神様のこと?

対話の始めに、一人が重要な質問をしてくれました。

「神様は、一人だけいて、全員のことを見てるの?一人一人担当がいて一人一人を見てる神様?昔の歴史に出てくる枠ごとの神様?死者をまつる神とか?愛の女神とか?・・・どの神様のこと?」

どの神様のことを前提にしているのか、確認する質問でした。

他の子から、「一人だけの神様もいるし、いっぱい神様がいるのもある。多分、全部じゃないか。」と意見がありました。

実際に、子どもたちの話を聞いていると、一神教のイメージもあるし、多神教のイメージもあり、また、神話や女神、仏教のイメージも持ち合わせていました。

ファシリテーターは、どの神の話にするのか絞るようなことはしません。

神は何かをしてくれる存在なの?


神と神話の関係性、そして、神という言葉をめぐって対話が始まりました。

「神はいないと思う。なぜならギリシア神話とかで考えられた英雄みたいなものを、みんなが神様と言ってる。」

これにすぐさま、賛同する子がいました。

「私も同じで、神はいないと思う。もしいるなら、貧困状態の子をもっと助けてくれるんじゃないかと思います。人生は困ることもあるけれど、もし全体を見たりする神様がいるなら、もうちょっとみんなが幸せに暮らせるように助けてくれるんじゃないかと思う。」

これには、ファシリテーターも心の中で思うことがあります。どの神かにもよりますが、例えば、キリスト教では、神は全知全能な存在で、世界の創り主です。つまり、神はなんだってできる存在なのです。それにも関わらず、この世界には不幸や悪が存在している。「神が存在するならば、なぜこの世界に悪があるのか。」という問いは、中世の神学者や哲学者にとって重要なテーマでした。それは、私たちの「世界」に関わる重要な問いだったのです。

決して古びたテーマではありません。今なお、この問いに真剣に向き合っている人々がいるのではないでしょうか。

「神様は、見てるだけだと思う。(その理由は)今までで何もしてくれてない。」

「じゃあ、神様がおる意味ってないの?」

「もし神が助けてくれるとしたなら・・・別の人が助けてくれたのを見たなら、その別の人が、ずるいずるいと、その神を恨むかもしれない。」

「助けられるとか、助けられないとか・・・。もし、神様は、見ているだけで、何もしないなら、神様がいる意味はなんなんだろうか?」

「神様がいないなら、お正月とか、神様に関係するお祭りの意味がなくなってしまう。神がいないなら、なんで神社があるの?」

神が何もしてくれないならいる意味があるか、については存在の意味への問いです。それと、実際に神が存在するのかどうか、という問いは、少し別の問題です。一方は、存在を前提とした「意味の問い」であり、一方は「存在の問い」です。

また、神が何かをしてくれるのか、してくれないのか、という問いは、「神の定義」に関わるもので、中世の神学・哲学を彷彿とさせます。

「(神社があるのは)いるって信じてる人がいるからでしょ・・・・。」

神は英雄?命の恩人?


「もし、ヤマタノオロチがいたとしたなら、襲われる人を助けたから。神だったら助けられない人もいたかもしれないけど、その人は(襲われている人を)危ないところから助けられたから。その人は神と祀られただけだから。神は(人間に)考えられただけだと思います。」

もし神がいるなら、なぜ救われない人がいるのか、という問いに対しての一つの回答かもしれません。神は居なくて、英雄が人々から神として祀られただけであって、それは人々によって「作られた神」であるという意見です。

子どもたちは、ファシリテーターの力を借りず、ほとんど自然に、お互いの意見を聞きながら、関連性に沿って対話をするようになっています。

「そうだとしたなら、神っていう意味がよくわからなくなる。その時は、神が居ないということだから。それなら、なぜ神と呼ぶことにしたのか。その時には、神という言葉がないから、英雄とかって呼んでいた人が、神って言葉を作ったんだと思うけど、神の意味がわからない。」

これは非常に面白い意見です。神がいないとしたならば、その時代にも、神という概念がないはずです。それにもかかわらず、助けてくれた人のことを、「命の恩人」でも「英雄」でもなく、わざわざ「カミ」という言葉で表すことにしたのは、なぜなのでしょうか。言語への問いに話題が変わってきました。

「神の意味は、誰かが助けられたり、見守ったりする人のことです。」

この発言を受けて、質問してみることにしました。「じゃあ、自分のことを助けてくれた人は、全員、神になる?」

「本当に命が危ない死にそうな時に助けてくれたら・・・神という。」

これには、すぐに反対の意見が出てきました。

「私たちも知らないような有名ではない人が、誰かの命を救ったかもしれない。私たちは、どこかで誰かが命を救っているその英雄、一人一人のことをよく知ってるわけではないし、その人たちのことを神!神!と呼んだりはしていないから・・・違うんじゃないかと思いました。
でも、私の考えでは、神と呼ばれる神社にいる人は、もう居ないけれど、お礼の気持ちで祀っているみたいな・・・?」

「命の救い主」が神だとしたならば、今もこの世界のどこかで、誰かの命を救っている人がいるかもしれません。そうした名もなき英雄たちは、いつもどこかにいるかもしれませんが、私たちが知ることはないかもしれません。また、そうした人たちのことを「神」と呼ぶかというと、何だか違う気もしてきます。そもそも、彼らがいることを知ることができなければ、彼らのことを神と讃えることもできないでしょう。

しかし、議論は続きます。

「知ってないと言われても・・・わかると思うんですけど。その場にいた人は、その人(助けてくれた人)の名前を知ってるから。その人が神だということを次の世代に繋げていったら、神だと今でも言える可能性があります。助けられた意味とか、どういうことがあったのかをちゃんと伝えて、命を救われたので、神だと言うと思います。」

その時その場にいた当人は、ヤマタノオロチから自分を救ってくれたのが誰なのかを知っているわけですから、その人を神と呼び、代々伝えていくことはできるという意見です。

カミという言葉

「今なら、神様という言葉があるけれど、さっきも言ったみたいに、神様という名前が、ちょっとまだよくわからない。その時は、カミという言葉が最初に無かったから、誰かが最初に言ったのだと思うけど・・・。『英雄』とかにしとったらいいのに、なぜわざわざ『カミ』って言葉にしたのかがわからん。」

自分を危ないところから救ってくれた人のことを英雄だとか、命の恩人と呼び続けることもできたと思います。それなのに、わざわざ、「カミ」という言葉に変えたのは、なぜなのでしょうか。『命の恩人』と『英雄』と『神』は、本当に同じものなのでしょうか。全く同じなら、わざわざ呼び方を変える意味がなさそうですから。

「『えいゆう』とかは、難しい言葉になるかもしれないし、『カミ』は短い言葉だから!」

即座に反論がありました。

「じゃあ、なぜ『カ』と『ミ』を合わせたんですか?」

反論を受けた子は「ちょっと考えときまーす!」と返答していました。

鋭い問いかけと、良い議論の流れでした。みんな、思わず、場がにこやかになりました。良い論敵は貴重な存在です。自分の意見が心地よいほど、すっかり覆されてしまう時や、答えに詰まるような問いかけをもらうことは、思いもよらなかった視点をもらえる機会でもあります。ちょっと悔しいけれど、案外大切な友人になったりもするものです。意見が正反対でも、いつか、そのような友情が育めると楽しいですね。

「『いのちのおんじん』や『えいゆう』に『カ』とか『ミ』が、入ってないやん。英雄の『え』と命の恩人の『い』とか、取るなら分かるけど。イニシャルならわかるけど、入ってもない『カ』とか『ミ』を何で使うん?」

その後も、当時は、「命の恩人」という言葉の方がまだなかった、とする意見や、そもそも最初にその言葉を決めたのは誰で、なぜなのか、などの話が続きましたが、堂々巡りしてしまいました。言葉は、単なるラベルなのか、それとも、言葉は存在そのものに根ざしているのか、言語について重要な問いが出ているようにも思いましたが、少し話題を変えてみることにします。

医者は神?

お医者さんが誰かの命を救うことがあると思いますが、お医者さんのことは神と呼ぶでしょうか?そのようなファシリの質問に、そんなのありえないと言わんばかりの笑い声もあがりました。

医者は神ではないとする意見には、「医者は、人を助けるという都合があり、ヤマタノオロチを倒した人は、なんの都合もなく偶然通りかかったのにも関わらず、退治してくれたから、神と呼ばれるようになった。」というものもありました。けれども、「偶然通りかかったかどうかに関わらず、命が危険にさらされていることをわかって、人を助けるという意味では、医者も同じだ。」とする反論もありました。

言葉全部に違う意味がある?

神という言葉をめぐる議論が続きましたが、ずっと黙っていた子が手をあげてくれました。
「言葉全部に違う意味があるとしたら、『神』と『英雄』と『命の恩人』は違う意味があると思います。」

神が何かをしてくれる存在だとしたら?


話題はまた変わり、神は、「何かをしてくれる」と思うか、それとも「してくれない」と思うか、「わからない」か、3つの選択から、全員に手を上げてもらいました。何かをしてくれるわけではない、に手をあげた子も何人もいましたが、その理由はうまく説明できないようでした。何かしてくれる、に手を上げてくれた子が、意見を言ってくれました。

「神が何かしてくれるとしたら・・・ご先祖様の、例えば仏様に、家庭が平和になりますようにみたいな願いをするから。叶えてくれるかは、わからないけど・・・。」

悪い人の場合

今まで、哲学対話で対話に積極的に参加できなかった子が、初めて自分から手を上げてくれました。こんな意見です。神は、私たちに「何かをしてくれる存在かどうか」の続きです。

「神は、姿を見せないけど・・・・。悪者は、あまり神には、願い事は、できないと思う。悪者は、悪いことをしてるから、神様にはいいことはしてもらえない。」

さて、これは気になる意見です。「悪とは何か」自体、重要な哲学のテーマです。神にとっての悪い人と、自分が思う悪い人、そして、みんな(社会)にとっての悪い人は、同じなのでしょうか。(話題が逸れそうなので、これについては質問しないことにしました。)

いろんな神に共通していることは?


ヤマタノオロチを退治する神話に出てくる神様、先祖、仏の話、アマテラスについて話してくれた子もいました。どうやら、みんな別々の神様の話をしているのかもしれません。どの神にも共通することはないでしょうか?ちょっと考えてみましょう。

「神様は、神様でも、太陽の神様や、商売の神様、音楽の神様など、それぞれみんな担当がある。」

「誰かを助けた人。優しい、見守ってくれている人・・・とかも共通していると思います。」

「神様は、命を救った人だけではない。見守ってくれる人とかです。」

「雷の神様は、上から降ってくるから、神様は上におる。」

神は上にいる?

「神様が見守ってくれている」という意見や「上にいる」という意見は、とても面白いです。何人もの子が「確かにそういうイメージある!」と口々に話しています。
わっと場が盛り上がります。

「上の上の上の上!」

「それを言うなら、天がいい!」

「上って雲の上とか?」

「雲の上よりも上だよ。」

手を挙げた男の子が対話を進めます。

「雷も神。神様が何かをしていると昔の人は考える。」

間髪入れずに、ぼやきが聞こえてきます。

「ていうことは、俺は昔の人の考えをしとるっていうこと・・・?」

昔の人が考える神と、今の人が考える神

あまりに面白いやり取りに、思わず、みんなを呼び止めることにしました。発言をなぞり、みんなに聞いてもらった後、問いかけてみます。昔の人が考える神様と今の人が考える神様って違うでしょうか?

「うん。違うかも。理由はないけど・・・なんか思う。」

「今の人が考える神様は、すごい人。」

「昔は、なんか退治してくれるとか、命を救ってくれる人がおったけど、今はお医者さんぐらいしかいないから。今考える神様は、見守ってくれる人。でも、見守ってくれている人だったら、天にいるだけじゃなくて、周りにもいると思いますけど。警察とか親とか。」

見守ってくれる?

とても気になる意見がありました。見守ってくれている人だとしたら、周りにもいるという意見については、どうでしょうか。

「周りにもおるけど、(警察や親と違い)神様は神様です。上の方の天にいたら、全体を見渡せるんじゃないかっていうイメージがあったから。」

「〇〇さんの意見に似てるんだけど、見守ってくれている人を神様と言うなら・・・天からじゃなくて、地上から見守ってくれている人で、親とか、学校の先生とかがおる。その親がずっと見守ってくれているのに、(親のことは)神様とは言わない。」

見守ってくれている人が、みんな神なのかどうか、「神の条件」について重要な論点だと思います。見守ってくれているだけでは、神とは言えないのかもしれません。

「学校の先生も、地域の人のことも、神様とは言わんもん。」

「自分が死んだら・・・あ~もう忘れた!」
うまく言えなくて、悔しそうで唸っていました。出かかっているのに、うまく言えない時には、気持ち悪くて、嫌になっちゃうこともありますよね。それでも、手をあげて言いかけたその言葉が、次につながりました。

「えっと、〇〇さんの言葉に続けて、自分が死んだら、天に行くと言われているので、自分も神様になる。」

自分も神様になるというのは、とても面白いですね。

「〇〇さんが、さっき自分も神様になると言ってたけど、天にいる人は全員が神様になるというわけではなくて、自分が死んだら、仏様になったり・・・・。仏様と神様は違うと思う。」

「天に行くというのと、下に行くというのがある。」

上とか下とか?

またまた面白い意見が出ました。神の話から、上とか下とかの話が出てきましたね。

「イメージとか、言い伝えなら、上におるっていうけど、本当なのかはわからない。」

「だって、地獄には、おらなさそうやもん!」

「地獄にだっておるかもしれん。」

「おるの?」

「もし神様が天にいなかったら、もし地獄に神様がいるとしたら、下なので、私たちのことを全然見渡せんと思います。天にいたら、上からだから、どんな行動しとるかとか見渡せると思います。さっきの意見で思ったことは、今は神様はいないと思います。だって、今は、親とかが見守ってくれるから・・・、神様がおったとしたら、神様が上におったら、親とかのことも神様って言う、複雑なことになるので。神様がおらんかったら、親たちが『見守ってくれる人』で、今は『神』という言葉が残っているだけで・・・、神様のことを今は、『見守ってくれる人』と言うと思います。」

「神様が下にいるとしたら、その神様は、何もみていないか、下から見ているか・・・。」

「下からより、上からの方がめっちゃ見えるし。」

見渡せるかどうか?

どうも、「見渡せる」という言葉はキーワードであるように思います。そもそも、なぜ見渡せないといけないのでしょうか?自分のすぐ隣にいてくれる親や、先生も、見守ってくれていると思いますが、天からの方が見渡せるのかな?

「(天からだと)地球全体が見える。それで上から見てるんだと思います。」

「地球だけじゃなくて、他の星も見ているとしたら、相当遠くになると思うので、全部見えるぐらいの視力だね。」

「天から、なんで見渡せるかというと、屋上とかから見たら、見晴らしがいいみたいに、屋上よりももっと上だったら、もっと見晴らしがいいし、雲の上よりももっと上って言ってるから、それだったら、すごく見晴らしがいいし、全部見えるから・・・でもそれはそれでも、地球の惑星の外から見たら、例えば、月に行って、月から地球を見ようとしても、海と陸しか..見えるけど、人がどう動いているかとかはわかんないから、それだけ神様は視力がないとできないから・・・それだったら、神様がいるのだろうか・・・わかんない。」

見渡すには、見渡すための位置と視力が必要だという意見は、とても重要です。「望遠鏡」とつぶやいた子もいました。神には、色々な神がいると思いますが、もしも全知全能と言われる神について考えるとしたら、なぜ、どのようにして、「全てを知っているのか」という問題は、まるで中世の哲学者や神学者たちのことを思わされます。

対話の終了時間が近づいてきましたが、「ちょっと、これだけは言わせて!」とまだまだ、言い足りない子もいるようです。4人も手を挙げています!

「さっきの地球全体を見渡せるっていう考えに、ちょっと質問なんですけど!じゃあ、地球の裏側はどうする?」

「は!!確かに・・・。」

「だったら裏側にも、もう1人!」

「東西南北におったらいいんじゃん。」

「神様は、お年寄りの感じするから。だから、目が見えない・・・どうやって見るんだろうって思いました。」

「建物の中に人が入ってたら、建物の中も見えないといけない。」

これもまた、唸らせられる意見です。確かに、なんだか、神は、赤ちゃんでもなく、10歳でもなく、20歳でもなく、お年寄りのイメージがありそうです。お年寄りは、老眼で目が見えずらいのに、いったいどうして見渡せるのでしょうか。

ファシリテーターも、考えさせられます。神が見るとは、私たちと同じように、視覚(眼)を通してでしょうか。
それとも、そうでない何か特別な仕方で、見ているのでしょうか。「見ること」と「知ること」は同じでしょうか。
私たちにも、直接、観てはいないけれども、知っていることがあるでしょうか。

神が知るとしたら、どのようなあり方をしているのでしょうか。

子どもたちの対話をまとめながら、ぜひ、大人たちにも読んでもらいたいと思いました。

みんなのワークシート







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