私たちに世界は変えられるか?
2020年8月10日開催 オンラインZoom まんのう図書館主催
15歳から18歳の5名の参加者と、「私たちに世界は変えられるか」をテーマに、哲学対話を行いました。主催は、まんのう町立図書館、ファシリテーターは杉原が務めました。
箇条書きは、参加者の発言を示します。丸カッコは杉原が補足した文章です。当日のメモを参考に、できるだけ参加者の表現に忠実に書けるよう努めました。小見出しは、杉原が執筆の際に書き加えました。読みやすいよう部分的に区切りを設けるためです。
当日は、哲学対話のルールを説明した後、テーマからどのようなことを思ったり、考えたりしたか、言葉にしてもらいました。
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・「世界を変える」といったときに、「世界」という言葉の意味が広い。もしも「世界」が全世界のことを指しているのならば、国も文化も違うから、変えるというのは難しいと思う。けれども「世界」がもう少し身近な自分の周りのこと、例えば学校の中ならば、校則などを、生徒会に入って変えるなど、考えられると思う。
・「世界」とは、自分の主観的な見方、自分の目で見た世界であるから、「世界を変える」とは、気分を変えることだと思う。
・このテーマを見たときに、「平和に変える」ということが一番に想い浮かんだ。けれども、過去の歴史を見たときに、危ない方向や良くない方向に変化することもあるから、良い方へ変わるのと、悪い方へ変わるのと、どちらもあると思う。
一人一人の考え方が違っていると思うけれど、変えていくときに、どう折り合いをつけるのか、多数決で決めるのか、互いの意見を戦わせながら決めるのか。
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「世界」といったとき、その「世界」とは何を指しているのかというお話が出てきたと思います。また、「変える」ということに焦点をおいた意見も出てきました。良い方向へ変わること、悪い方向へ変わること、どちらもあると考えておくことは大切かもしれません。変えるための過程や方法がどうあるのかということも触れられたと思います。(多数決や議論の勝敗や折衷案を出すなど)
歴史と変化
・歴史を念頭において、あくまでその時その時の時代の人々が良いと思ったものが、今残っているものだと思う。そして、それらを良いと思ったら引き継いで、次の時代へ残してゆくことが自分たちにできることだと思う。大多数が良いと言う意見はあると思う。大多数が良いと思う意見が反映されるように、個人が意見を主張できる場所があることが大切だと思う。
・「これが良い」とされてきたものが、今の文化に合わないことが結構あると思う。そういうことを変えていくということが、世界を変えていくということではないか。実際に変わってきたこともあると思う。家柄同士の結婚などは減り、自由恋愛ができるようになっているなど。仮に、時代を経るにつれて、良いものが残ってゆくし、またより良くその時代の人々が変化させることができると考えたとしても、実際には良い方向に向かっていないものもある。それはなぜなのか?
・時代の流れやその時の環境によって、ほかよりも良い性質を持ったもの、有利だったものが残っていると思う。
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その時代によって価値観の変容があり「世界の変化」にも関係があるように思います。何も無い状態から始まるのではなく、今という時が、常に過去からのものを受け継いでいるようにも思えます。そして、その過去から受け継いだ文化や慣習や規範などを今に生きる私たちが良いと思ったら、引き続き受け継いでゆくということでしょうか。しかし、参加者の方のご意見にあったように、良いものだけが残るとしたら、時代を経るごとにどれだけ素晴らしい世界になることでしょうか。けれども実際には、今もなお沢山の問題を抱えているように思います。「それは何故なのか」という問いは、大切な問いだと思います。
世界は一つか
・「世界」について、社会問題について話しているように聞こえる。この「世界」で自分の存在と自分の見方は一つだと思う。社会構造的なニュアンスとは異なる「世界」があると思う。「世界」を社会という括りで見たことはなかった。「世界」は人それぞれ見方によるものだと思う。世界は一つだが、同一のものを見ていても、人によってだいぶ違うと思う。
自分の意志が、身体に乗っかっている。だから主観的にしかものを見ることはできない。同じ物体を認識していても、見る場所が違う。
・みんな違うものを見るけど、同じものだと思っているのは何でかな。意思疎通に問題がなければ、同じ定義/同じものを指していると考えていいのかなと思う。
・「存在としての自分から見る世界」と言うと、全世界や社会を小さくしてゆくと、「私の世界」に行き着くのかな。
・自分の世界と一般的に良い/普通とされる世界観があるのかもしれない。自分と世界との間に差異が生じたら、それを変えたいと思うのかな。「意思疎通ができれば同じものを捉えていると考えてよい」という意見もありましたが、そのような形でみんなが共有できているものが「一般」になってくるのかな?
・世界は一つではないかと思う。自分から見た世界と他人が見ている世界があったとしても、自分は本当のところでは、自分のみる一つの世界しか見れない。
・社会問題について、一人では変えることはできない。歴史からみるに、集団で変えてきたと思う。集団として共有する「世界」もあると思う。
・一人一人の見ている世界があって、それがちょっとづつ繋がることで、団体になるのかな?
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「社会構造的な世界」や「私の世界(私的世界)」、「世間や一般的な世界」、「集団的世界」、複数の世界像が出てきたと思います。参加者の皆さんの意見を聞いていて、「世界」は本当に一つのものとして存在しているのだろうかという疑問が湧いてきました。
「自分の意志が身体に乗っかっている」という表現はとてもユニークだと思いました。「意志」と「身体」とを分離して考えられているということでしょうか。
全世界や社会を小さくしてゆくと「私の世界」に行き着くのでしょうか。「私」という世界は、全世界よりも小さいでしょうか。どちらが小さくて、どちらが大きいか比較検討できるでしょうか。
「主観」という言葉も出てきましたが、まず「私」という存在があって、それぞれの人々がそれぞれの見方によってそれぞれの「世界」を持っているとすると、そこにあるのは、どこまでいっても「私の」あるいは「私にとっての世界」でしょうか。そうだとすれば「世界」が複数あると考えることもできそうです。多数の人が違う見方をしていても、同一のものを見ていると言える根拠としてあげられるのは「意思疎通に困難が生じていない」ということでしょうか。しかし、実際は世界を変えようという活動や取り組みの中で意思疎通ができないことや衝突もあるように思います。「りんご」や「猫」という存在者と「世界」という存在は、異なった性質を持っているのかもしれません。むしろ「世界」を「存在」として捉えてよいのかどうかすら再吟味できるかもしれません。
世界を変える数の力?
・一人では世界は変えられないと思う。ヒットラーとか独裁者のことを思い浮かべた時、彼が一人で変えてきたように見える。けれども、ヒットラーに賛同する人が居て変わったのだと思う。
それぞれの人が見ている世界の共通する考えや意見に共感して「この人について行こう」という風になるんじゃないだろうか。
・世界を変えるためには、人数が多くないといけないと思った。幅広い意見、全く違う意見、違いからどうにかして共通している所を見つけたりすることが大切かな。「自分の世界」では、人数は関係ないけれど、世界を社会的なものだと考えるならば、変革をもたらすために人数が多いほうがいい。
・自分の世界と社会とは分けて考えるべきだと思う。社会的世界だと人数が多いほうがいい。一人では変えられないかというと、そうではなくて、(その一人の行動/意見が)有利か不利かによると思う。みんなに賛同されると、採用される。自分の世界の場合、自分から世界を変えられるけど、他人によっても自分の世界が変えられるということがあるかな。環境によっても変わるかな。小学校から中学校に変わったりするとか。
・数があったからこそ、政府も意見を聞こうと思うのかもしれない。(運動や活動について)
・黒人の公民権運動について学校で習った。バスで黒人の人が立たなければならなかったけれど、黒人の一人の女性は立つことを拒否した。一人の行動から始まることもあると思う。
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何かを変えるにはやはり数の力が必要なのでしょうか。そのために「共感」や「賛同」を得ることが大切になるのでしょうか。
例に出されたヒットラーと公民権運動の黒人女性に共通点があるとしたら「共感」と「賛同」ではないでしょうか。共に共感し活動する人々が増えて、大きな運動になっていったと思います。しかし、支持される人数によって、その内容の善悪が決まる事はないでしょう。多くの人が間違うこともあれば、少人数の人が正しい場合も考えられると思います。けれども、自分が何かを変えたいと思うならば、賛同者が多い方が助かるでしょう。すると、近しい主張の持ち主が何人かいたとしても、共感や賛同を得やすい人と、そうでない人とは力の差が生じるでしょうか。人知れず思いを抱えて行為する人と、人目に触れるように行為する人との間には差が生じるでしょうか。人に知られて賛同者が多い人が世界を変えるのでしょうか。人知れず行為する人は、世界に変化をもたらさないでしょうか。
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時間も中頃に迫り、参加者一人一人に問いを立ててもらいました。
●「良い」世界とは?
●自分の世界とは?
●世界を「変える」とは?
●社会において、誰もが納得する決め方をすることはできるか?どうすればできるか?
●「まとまる」のには、何が必要なのか。
●自分の世界と社会とのギャップはなぜできるのか
●何をすれば世界を変えられるのか?
後半のテーマを参加者みんなで選び、「何をすれば世界は変えられるのか」に決めました。
何をすれば世界は変えられるのか
・「変える」と言った時、「良い方向へ変える」ということが対話の前提になっているように感じる。よい方向に変えるという事は難しいと思う。一方で、悪い事件が起こった事によって法律が変わったりすることがある。
・「何をすれば世界は変えられるのか」と考えてみる。自分の好きなことをすることで、自分の世界を変えることができる。みんなが良いと思っていることをすることで、社会を変えることができる。この解釈で合っているのかな・・・。
・気分によって、また、人生観が変わるような出来事によって、自分の世界は変わると思う。
他人から影響を受けて自分の世界が変わることで、社会や世界への見方が変わるかもしれない。
・「世界は変わる」と気づくこと。自分の世界と社会的世界の共通点や新しい意見への気づき。他の人の意見を聞いて、それも良いなと気づくかもしれない。選ぶ・共感するということが、変えるということなのかな。
こっちもあっちも良いと思ったら、折衷案をとったり、両方をとったりできるかもしれない。自分で気づいて選ぶ。
・世界を変えるために自分ができること・・・体験したり、知ったり、見たりすること。自分が価値観を変えることでより良い方向に変えられる確率があがるかもしれない。
悪い方向に行く確率が低くなるかな。ヒットラーに賛同する人は、良くない方向に向かっていると分かっていなかった。辞めようと思う人がいっぱい居ならば・・・色々な視点を知ることで、悪い方向へ行かないで居られる。
・人間の集団や社会、全体の塊を「大きな人」として捉え、一個人を細胞として例えてみる。ある目標を掲げてゆくことが、足をあげて歩くことだとしたら、個人の力は(一細胞としての)末端のもの。影響力のある人が一人いるだけでは、動かない。数が必要。そして、ある行動をするときに、役に立たないものは排斥する仕組みになっていると思う。丁度、体内で老廃物やガン細胞を排除するように。
・自分と関係している自分の知り合いも「自分の世界」を持っている。その人の世界も「世界」の一つだ。自分の影響で相手の世界を変えることができるかもしれない。それは集団が変わることにリンクするのではないか。
・自分がどうすればいいか考えてみると、自分がどういう風に他者に影響を与えるかだと思う。他人に自分のこと(自分の主張?)を気づかせることはできるかもしれない。自分たちが、癌や老廃物に気がつくことができたら、排斥できる。負けないでいられるかもしれない。
・良くないものを排斥するということはある。その一つの例としてガン細胞などはあるだろう。けれども、悪いものだと思っていたものが、良いものかもしれない。判断が難しい。主張できる場が必要。誰かに気づいてもらう、気がづかせる、自分が気づくことが大切。
・「良くなる」とは、結果でしかないし、結果としてしか分からない。目的に向かって一歩踏み出す行為それ自体、本当は良くないことかもしれない。結果として良くないことになるかもしれない。良い悪いが、人間に簡単に理解できるものではない。その行為が害を及ぼすものになるかもしれない。
自分ひとりで、物質の世界に働きかけてもあまり意味がない。人間に向けての活動になる。政治のことを考えると「対人間」への影響ということになると思う。
集団として動こうとしたら効率を重視するから、(効率を低下させるものを)排斥するだろうと思う。全体の効率と道徳のすり合わせが難しいと思う。
・一歩踏み出すことそれ自体が良いかどうか分からないだなんて、リスクだなと思う。いい方向に向かう確率を高めたい。その確率をあげるためには、たくさんの意見と動いてくれる人が必要かな。
「責任」について考えると、集団であれば失敗してもみんなで決めたことだから仕方がないということになると思う。それが集団になる良さかなと思う。集団の難しさもあるとは思うけれど・・・。ひとりが責められることは無さそう。ひとりが責任を負うことになると、失敗した時に立ち上がれないかもしれない。そういう意味では、集団に所属するメリットがあるかな。
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「世界を変えることはできる」ということを前提にした考えが、全体的に多かったように思います。変化をもたらすことができるとして、それが良いものになるのか、悪いものになるのか、どちらもありうるのだという意見が前半にありました。変えることについて「より悪くしよう」という考えは出てこなかったように思います。どちらかというと、「より良いものへ変えてゆく」といったことが、「変える」ことを考える上での前提になっていたのではないでしょうか。世界を悪くしてやろうと望む人は、あまりいないのかも知れません。私たちはより良いものを求める存在なのかも知れません。
けれども、参加者の意見にあったように、実際に良い方向へ変えることは、容易ではないのかもしれません。どんなに良い案があっても、他者の賛同や協力がなければできないことがあるかも知れません。自分が悪いものだと思っていたものが、本当は良いものかも知れず、良いものだと思ってやったことが、結果悪いものになるかも知れません。良い・悪いが人間に簡単にわかるものではないという意見や、結果としてしかそれらを知ることができないのではないか、という意見もありました。善悪を知ることが難しいのだとしたら、それが困難である理由は何かについて考えることができそうです。
最初の方に出てきた意見からヒントを得て、次のような言い方もできるかも知れません。同じものを見ていたとしても、各人にとって見え方が違っているので、どこまでいっても、それは自分にとっての良いことでしかないのだ、と。だとすれば、私にとっての良いことが他人にとっての悪いことになることもあるでしょう。私たちは、「私にとって良い」を超えて、善悪を判断することができるのでしょうか。
参加者の方が出された問いの一つに「”良い”世界とは?」という問いがありましたが、「世界を変えられるか」を考えるとき、善悪の問題についても考えなければならないのかも知れません。
「何が良いのか」を探し求めることを放棄してもいけないし、特定の「良い」にこだわり過ぎてもいけないのかも知れません。参加者の発言から<主張すること・知ること・経験すること・自ら気づくこと・他者に気づいてもらうこと>などの表現が繰り返し出てきました。何が「良い」のかを知ることは簡単ではないとしても、それを自覚しながら、「良いとは何か」を、開かれた態度で様々な他者と共に求め続けることが大切なのかも知れません。
最後に
オンラインの哲学対話ですので、どこからでもご参加いただけます。
次回は、9月19日(土)16時から18時「客観的ってなんだろう?」をテーマに哲学対話をします。
中高生の皆さんのご参加をお待ちしています。