水中稲
裕太さんは、学生時代、全国区レベルの水泳選手だった。
今はその時の経験を活かし、整骨院を営んでいる。
なぜ、選手を引退したのか。その理由を教えてくれた。
裕太さんには2つ上のお兄さんがいた。
兄弟で幼い頃からスイミングスクールに通い、常に二人で大会に出ているほどだった。
いつも表彰されるのは兄で、自分はいまいち伸びが悪い。
「ユウ、大丈夫だ。お前はちょっと臆病なとこがあるだけだ」
兄はそう言っていつも慰めてくれたが、結果の出ない試合には飽き飽きしていた。
中学にあがる頃には水泳を辞めようと考えていた。
そんな中、兄は突如として事故で亡くなった。
頼りにしていた存在を失い、失意のどん底にいた裕太さん。
まわりに励まされる中で、兄の分まで生きたいと考えるようになった。
そして、まずは水泳を頑張ろうと心に決めた。
それから裕太さんは次々と自己最高記録を塗り替える。
見ている者には、お兄さんの分まで頑張る姿が、痛々しくも健気に映った。
しかし、そうではなかった。
--兄に助けられている。
飛び込み台に乗ると、耳元で必ず「ユウ、大丈夫だ。怖くないぞ」と聞こえ、水に飛び込むとプールの底に兄が現れた。
腕が着水するたびにグイっと引っ張ってくれて、その勢いで水が軽々と蹴れた。
白い布を裂くように水が割れて、身体がどんどんと進むのだ。
守られるまま、操られるまま。
助けて貰って記録を更新することが常になったある日。
とある大会の選手に選ばれるかどうかという話が出た。
兄が夢見ていた水泳選手の道。
選考試合で成績を残せば、大会に出場できる。
自分の将来としての水泳を考えた時、胸に初めて高鳴りが生まれた。
自身の名前が世間に知られることにもなるかもしれない、と。
飛び込み台で構えを取り、逸る心を抑えつけつつ、いつもの声を待つ。
耳元で
「ユウ、なんでお前なんだ」
と聞こえた。
いつも優しい響きとは違う、掠れた声。
異変に焦り、慌てて水底に目をやる。
そこに兄の姿はなく、無数の白い腕がプールの底から生えていた。
おいでおいでと誘う様子が、秋の稲穂のようだったという。
裕太さんはその試合を放棄し、水泳を辞めた。
これ以降、お兄さんの姿も白い腕も見ていないらしい。
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竹書房マンスリーコンテスト、最終選考まで残った作品です。
もうひと踏ん張りっ!
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